かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

乖離と”わたしたち”

最近精神疾患について考えざるを得なくなった。

 

娘が精神科にお世話になっているので今、どういう状況下かを報告する為私自身も調べる機会が増えた。先生と話すことで自分の持っている知識が結びつくのでとても勉強になる。例えば乖離と多重人格は違うものかと思っていたが、根本的なものは一緒だという事。ストレスから逃れた結果の症状であることは変わらない。子育てをしていて自分が子供にストレスを与えていることは解っていたけれど、まさか乖離に繋がるとは思ってもいなかった。ただ、私もまた家庭環境で同じようなことが起きていたことに間違いはない。自分にも責任はあるが私だけの責任ではない。実際にカウンセリングを受けているのは娘だが、私が受けた方が良いのではと思う事がしばしばある。私の心も癒えてはいない。どうしていいのかわからない衝動に駆られる。

最近娘の対応をすることで自分自身の癒しになるのかも…。と思うようになったら少し気が楽になったのと、そう思うことでしか腑に落とせなかった。

そしていろいろ調べていくと、私自身も一般人とは違う事が良く分かってきた。脳内会議は当たり前だと思っていたらそうではないらしい。そして常に4人いるわけではないが、自分が自身の人生を生きているという感覚はあまりない。思えば確かにハートで感じる。とか言われてもしっくりこない。そういった意味では私が娘の親で良かったのかもしれない。フツウの人よりは理解しやすいだろう。口が達者すぎるのでトコトン状況説明をし、耳を塞ぐ娘に「シャットダウンしてんじゃね~よ!!」とよく怒鳴りつけた。

わたしが精神科に通いたいと良く思った。そして娘の取扱説明書が欲しかった。

典型的な育てにくい子である。

 

人格を統合すると生きやすくなるとあったりするが、本当だろうか?

”わたしたち”にとって複数人いるのが当たり前だったのにそれを一人にするのはむしろ恐怖である。状況分析ができたり、いろんな意見を聞くことができる。人格が増えることも恐怖だが、なかったことにするのはもっと恐怖では?一方で共存できていれば問題はないという一文を見つけた。とてもホッとした。4人全員意見が一致することは滅多にないが、この時は一緒だった。

 

ヴィッパーサナ瞑想という瞑想法がある。自分を俯瞰して観る。というもの。これって乖離と同じではなかろうか?そう思った。わたしたち は生き残るために違う人に痛みを受け渡した。瞑想は意図的に状況をつくりだす。一般人は瞑想後、脳内がクリアになるという。わたしたち は意図的でなく自然に行われている。残念なのは常に俯瞰なので、脳内は一向にクリアにはならない。

 

何となく思うのは、もう普通の生き方はできないような。この時点で脳内の仕組みが違うので、一般的なワークをやっても大多数の人達と同じ反応は出ない。師匠に”4人いるから大丈夫”と言われたことがある。受け入れて生きていくしかない。

最近、一生懸命何かをやろうとすることをやめた。何かやりたい。と思うのだがやりたいコトはなかなかみつからず、、、。セラピストという生き方は自分には難しいと思い始めた。一般の人とは感じ方が違うので、共感が難しい。ならば自分と同じような人を助けるコトができたなら、ちょっとは役に立つのではなかろうか?私自身同じ感覚を持つ人もおらず、苦しい思いをした。そして娘も同じようにわかってくれる人がいない苦悩している。

生き残るために乖離が起きたんだけど、私もセラピストの勉強をしなかったらそんなことわからないまま苦しんで生きていたんだろうな~。自分がどういう状況かが解ればだいぶ楽になると思う。これからもう少し深く学んで、今後の人類の発展に寄与できればと思う今日この頃。二十歳の頃、自分の状況を知ろうと心理学を学んで、おかしくなったことがある。出来なかったことをもう一度できるチャンスが今。やりたくないことかもしれないけれど、自分自身の癒し。→社会貢献。20年前はポリヴェーガル理論なんて知らなかったし、まだ研究段階だったんじゃないかな?自分自身の経験と理論が一致する事は皆が皆出来るわけではない。”わたしたち”だからこそ出来ること。そして”わたしたち”が伝えることによって鮮明になっていくんじゃないかな?

思っていたよりも フツウじゃない事がわかったら道が少し開けてきた。

死に向かってゆっくり歩き出そう!