気づくって難しいなと。
あたまでわかる気づきは知っていたけれど、
体感として気づく?こともあるようで。
あれやこれやと理解しようとすることをやめて、ただ湧き上がってきたことをそのままにしていたら、なんとなく今までよりも視野が広く見えた気がした。
自分に欠けているモノ。
結果的には備わっているが、その途中の過程がない。
例えば成功体験とか、受容されたこととか。
思えばワクワクすることとか、楽しいこととか、
そんな感情はあまり記憶がない。
過集中になることはあっても、
感情はなかった。
前回のボディーワークのセッションで、身体の中に空間ができたり、
自分がセッションを提供する時にそれが大いに役立ったりする感覚とか、
できることが増えていく感覚が少しうれしい感じがするのと同時に、
自分にはそういう経験がないことに気がついた。
そして人よりも欠落しているものが多いことに気がついた。
そりゃあ、不健全で生きづらい。
意外と強そうに見えてしまうわたしは、他人からはしっかりしているとか、
頼りになるとか、うまくやっているとか。
そんなことを言われがちで悩みなんてなさそうだと思われてきた。
がしかしである。
人がわからないように、うまく自分をコントロールしていたのだと思う。
人一倍悩みは多いかもしれない。
他人のことを理解することはできても、
自分のことを理解してくれる人はいなかった。
だからいつも、もやもやした気持ちになる。
みんな、いいなって。
うらやましく思う。
いろいろ凹んでいる時にバウンダリーについて調べてみた。
これもボディーワークのセッションで体感として自分の周りに分厚い膜ができる感覚があった。
何故だかわからないが、わたしのバウンダリーに不法侵入する人が多かった。
やめてと言ってもやめてくれない人。
そんなことを思い出していたら、わたしが悪いわけではない気がした。
今まで何かと自分が悪いと思ってきた。
自分さえ我慢すれば、丸く収まるとか。
理不尽なことにも耐えてきた。
ただそれは生存するために必要だったから。
正常な生育環境ならばそれは必要なかったはず。
わたしは悪くない。
相手が傷つかないようにやんわりNO!を言ってもわからない人は
わたしを受容してくれない人。いくら良い人でも不法侵入を許すわけにはいかない。
はっきりNO!を突き付けることは罪悪感があった。
優しく受け入れられない自分。でも自分を守るためには必要で、
がんばって受け入れようとしていたから疲弊していた。
自分の健全なバウンダリーを築くことはわがままではない。
そう言い聞かせているうちに
自分の問題ではないものを背負わされていることに気づいた。
だからわたしのNO!を受け入れてくれる人を大切にしようと思った。
そういう人と関わっていくことが自分にとって心地よいことなんだと思う。
そういう心地よさの積み重ねが大切なんだと思う。
今まで、自分が背負わなくてもいいものを背負わされてきた気がする。
相手の問題と自分の問題が見えた瞬間、
わたしは悪くない。
そう思えた。
世の中には人の優しさを無下にする人がいる。
それは仕方のないことだけど、
わたしはそういう人とは距離をおくことを決めた。
だって素敵な人と繋がりたいもん。
大切にしてくれるひと。
些細なことかもしれないけれど、
こういう丁寧な積み重ねをしながら生きていきたい。
自分の心地よさを身体で感じる生き方が健全への近道なのかもしれない。