かまじいのブログ

わたしが運命をみつけるのではなく 運命がわたしをみつけるのだ

健全なバウンダリー

気づくって難しいなと。

 

あたまでわかる気づきは知っていたけれど、

体感として気づく?こともあるようで。

あれやこれやと理解しようとすることをやめて、ただ湧き上がってきたことをそのままにしていたら、なんとなく今までよりも視野が広く見えた気がした。

 

自分に欠けているモノ。

 

結果的には備わっているが、その途中の過程がない。

例えば成功体験とか、受容されたこととか。

思えばワクワクすることとか、楽しいこととか、

そんな感情はあまり記憶がない。

過集中になることはあっても、

感情はなかった。

 

前回のボディーワークのセッションで、身体の中に空間ができたり、

自分がセッションを提供する時にそれが大いに役立ったりする感覚とか、

できることが増えていく感覚が少しうれしい感じがするのと同時に、

自分にはそういう経験がないことに気がついた。

 

そして人よりも欠落しているものが多いことに気がついた。

そりゃあ、不健全で生きづらい。

 

意外と強そうに見えてしまうわたしは、他人からはしっかりしているとか、

頼りになるとか、うまくやっているとか。

そんなことを言われがちで悩みなんてなさそうだと思われてきた。

がしかしである。

人がわからないように、うまく自分をコントロールしていたのだと思う。

 

人一倍悩みは多いかもしれない。

他人のことを理解することはできても、

自分のことを理解してくれる人はいなかった。

だからいつも、もやもやした気持ちになる。

みんな、いいなって。

うらやましく思う。

 

いろいろ凹んでいる時にバウンダリーについて調べてみた。

これもボディーワークのセッションで体感として自分の周りに分厚い膜ができる感覚があった。

何故だかわからないが、わたしのバウンダリーに不法侵入する人が多かった。

やめてと言ってもやめてくれない人。

そんなことを思い出していたら、わたしが悪いわけではない気がした。

今まで何かと自分が悪いと思ってきた。

自分さえ我慢すれば、丸く収まるとか。

理不尽なことにも耐えてきた。

ただそれは生存するために必要だったから。

 

正常な生育環境ならばそれは必要なかったはず。

 

わたしは悪くない。

相手が傷つかないようにやんわりNO!を言ってもわからない人は

わたしを受容してくれない人。いくら良い人でも不法侵入を許すわけにはいかない。

はっきりNO!を突き付けることは罪悪感があった。

優しく受け入れられない自分。でも自分を守るためには必要で、

がんばって受け入れようとしていたから疲弊していた。

自分の健全なバウンダリーを築くことはわがままではない。

そう言い聞かせているうちに

自分の問題ではないものを背負わされていることに気づいた。

だからわたしのNO!を受け入れてくれる人を大切にしようと思った。

そういう人と関わっていくことが自分にとって心地よいことなんだと思う。

そういう心地よさの積み重ねが大切なんだと思う。

 

今まで、自分が背負わなくてもいいものを背負わされてきた気がする。

相手の問題と自分の問題が見えた瞬間、

わたしは悪くない。

そう思えた。

 

世の中には人の優しさを無下にする人がいる。

それは仕方のないことだけど、

わたしはそういう人とは距離をおくことを決めた。

だって素敵な人と繋がりたいもん。

大切にしてくれるひと。

 

些細なことかもしれないけれど、

こういう丁寧な積み重ねをしながら生きていきたい。

 

自分の心地よさを身体で感じる生き方が健全への近道なのかもしれない。

 

 

 

 

変容への道

ただいまロルフィングのセッションを受けております。

月イチで受けていたけれど、少しペースを落とそうかな?。

癒しはゆっくりな方がいい。

藤原ちえこさんが言っていたな~。

 

今回、何故かわからないけれど

言葉にするということをしていない。

 

身体で感じるインパクトが強すぎて余裕がなかったのもそうだけれど、感じることを通して言葉にしないだけでも自分自身と向き合う時間が多かったのでそのコトによる学びがたくさんありました。

 

わたしの場合自分自身と向き合いすぎると視点が合わなくなってしまったり、

過呼吸になってしまったり。

自分との距離をおくことで平穏が保たれるというコトがわかり、、、。

 

プラクティショナーの方と話している中ですごく印象的だったのが

向き合わなくてもいいものがあるというコト。

 

向き合わなくてはいけないと思ってきた。

 

今まで自分なりに向かい合ってきたつもりだったけれど、腑には落ちなかった。

これでもかってくらい向き合ってきたからもういいのかもしれない。

身体がわたしにもういいよって教えてくれたのかもしれない。

 

出てきたものに対してただ見るというコト。

ただ見るというコトが全然できていなかった自分に気づき、、、。

今までは本当にあれこれ考えたり、

出てきたものに対して意味づけをしていたり。

ただ自分の中にそういうものがあるという、

出てきたものと共にいるコトができなかった。

 

これは本当に大きな気づきで、

こんなに簡単だったものを複雑にしていたんだなって。

そんな複雑にしていた自分を理解することもできた。

どうしてそうなってしまったのか?

 

いろんなことの辻褄が少しづつ合ってきた感じがする。

 

まだまだフラッシュバックもおきるけれど、

身体感覚だけだったものが感情とか、

映像とか、

過呼吸だとか形を変えて現れるけれど、

何とか収集がつくようになってきて、

少しづつコントロールできるようになってきた。

 

今までは本当に何をやっても駄目だったのに、ビックリするくらいの進歩だと思う。

身体にはきっかけさえあれば回復する能力を持ち合わせているというけれど、

本当に身をもって実感しているところです。

 

複雑性PTSDという背景がある以上

自分だけで何とかできるものではないと実感しています。

と同時に、専門知識がある方に支えてもらうメリットをとても感じています。

私自身、友人に話したりしたけれど、

うわべだけで聞いてもらっても自分が傷つくことが多かったり、

いろいろなコトに共感してもらえるというコトが難しいように思いました。

 

わたしの場合ボディーワークだったけれど、

SE(ソマティックエクスペリエンシング)という身体を通じてトラウマを解放していくプラクティショナーでもあったからその方を選んだのだけれど、語らなくても動きの中で本当に身体感覚が変わっていくのがとても興味深く、これなら楽しんでできそうだと思っています。

 

ただ、

ここまで来るにはそれなりの苦しい感覚もたくさんありました。

だけど、

自分の中にどうにかしたいという気持ちがあったのでここまで諦めずにこれたのだと思います。

 

よくなったり、悪くなったりを反芻しながら少しづつ回復への道を歩み始めていると実感できるようになり、いろんな感情が湧いてきてもう駄目だと思うこともあるけれど、ニュートラルに戻るコトを意識して気持ちをリセットすること。今までの認識パターンを変えていくことが大切だと思っています。

 

これからどんな自分になっていくのかわからないけれど、

自分の力で歩んでいけるよう、自分の身体を信じて歩んでいこうと思います。

 

自分の身体と素敵なプラクティショナーに敬意を払います。

 

 

 

 

 

 

 

放下著

 

あるけどない。ないけどある。

 

うまくことばにできない何かがわたしの中をいったりきたり。

見えそうで見えない なにか。

 

わかろうとすると見えなくなる。

見ようとするとわからなくなる。

 

満たされない なにか。

 

何をしても満たされない。

だとしたら 何かを足すことではなくて

なにかを捨てるコトなのかもしれない。

みんなが言う手放すってことなのかな?

 

何を手放せばいいのかわからない。

何も持っていないのに

これ以上何を捨てろというのか?

 

もしかしたら自分と向き合うことなのかな?

自分自身を手放す。

わたしというパーソナリティ。

 

どちらの方向へ向かわなければいけないのか?

ゴールの方で待ってくれている人がいる。

その方向だけはわかっていないとだめなのかな?

あまのじゃくなワタシは方向を決められることを嫌がる。

そんな自分を捨てないとだめなのかな?

ゴールで待っている人を信じられないのかな?

 

ありのままの自分を観れないのかな?

そのままを観るというコト。

そこには感情も理由もいらないはず。

ただあるということ。

 

手放すことを手放すこと。

なにかをしようとするのではなく

なにもしないこと。

自然と共に生きること。

ただそこにいること。

存在すること。

 

ただそれだけのこと。

 

観ようとすれば見えなくなる。

ただ遠くを見つめると方向性が見えてくる。

それだけでいい。

あとは流れに身を任せるだけ。

 

麻酔と麻痺

先日歯磨きの後にフロスでメンテナンスをしていたら

ぬゎんと歯が欠けた。

衝撃すぎて言葉にならん。

 

かけた歯を片手に歯医者へ。

虫歯もあったようで麻酔をかけられ、、、、、。

歯を削られるよりも麻酔が怖いわたし。

 

今はだいぶやり方が変わったみたいだけど、

 

いきなり言われて、パニックになりそうになるが、

そこは何とか落ち着いて息を吐きながら力まないように自分を誘導する。

これも乖離のなせる業かもしれない。

 

 

久しぶりの麻酔は今まででいちばん痛くなかった。

けど、麻酔が抜けるまでに結構な時間を要した。

まぁ、いつも歯医者の麻酔関係はあまり良い思い出がない。

血は止まりにくいし、麻酔が効きすぎて、、、。というコトが。

 

 

そんな中、わたしは自分の感覚麻痺を麻酔の麻痺と重なった。

あ~こんな感じなんだって。

脳内麻薬が勝手に放出されて、身体と心を麻痺させて感じなくなる。

 

そして麻酔がきれていく時、何とも言えない曖昧な感じになる。

正直、気持ち悪い。

奥の方は麻酔が効いていて、少しづつ現実感があるような。

おんなじ場所なのにバラバラな感じみたいな。

まさに乖離みたい。

 

そして麻酔の聞いている感じが、

内圧がかかっているみたいな、むくんでいるみたいな、

まさにyieldのセッションを受けた時の手のしびれたような感覚と同じ感じがした。

 

麻酔が抜け切れていない状態で食事をしたが、これまた気持ち悪い。

うまく咀嚼できないし、

動きがぎこちないからどこか力んでいる感じ。

自分の一部だけどそこだけ違うものみたいな何とも言えない感じ。

 

 

乖離って実は無意識で起きていることらしい。

わたしはたまたま自覚があって、症状が酷かっただけ。

でもなかなか理解できないようなことだけど、こんな感じでマジョリティの人たちに

感覚として理解してもらうというコトはとても大切なことだと思う。

 

 

精神疾患って目に見えるものでもないから、難しいなって思う。

理解されにくいし、答えがあるものでもない。

そう考えるとやっぱり 存在として受け入れる というのは

とても大きな意味を持つんだろうな。

 

存在と存在って言われてきたけどその意味が少しだけわかった気がする。

 

何かをするわけでもなく、ただそこにいるというコト。

 

情報が多すぎるこのご時世。

何かをすることが良いとされてきた。

でも本当はそうではない。

何かをしないとか引き算こそが必要なことだと思う。

 

何かを選ぶことも大切かもしれないけれど、

何もしないという選択肢もあるというコト。

 

セッションでも同じことが言える。

触れなくてもただそこにいる。

 

それだけでなにかは起きている。

それが何を意味するのか?

 

調和と受容の精神ってやつかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにこのような事態になったのは恐らく食いしばりが原因のよう。

寝ている時、やはりかなり力んでいる模様。

カタスレニアという夜中に唸るという事態もおきているらしい。

というコトでマウスピースを導入することになりました。

前歯もだいぶきている模様。

 

セッションを受けて緩和されることを願おう。

 

思っているよりも身体はダメージを受けている、、、、。

 

 

 

陰陽論が導いてくれたこと

何となく?五行陰陽論を学び始めることになった。

ひととおりなぞったら思考停止になったところで一旦終了。

 

そこから老子に繋がって以前購入した論語が意味を持つ。

そしてYouTube老子のことば的なモノを観て、納得した。

 

ただ何もしないというコト。

無為自然の実践。

ついつい余計なコトをしてしまう。

がんばっている自分を発見した。

全然気づかなかった気づき。

 

自我が何かしようとしている。

自分で言うのもなんだけど、これはすごくいい気づきだと思う。

少しづつ意識しながら余計なコトをやめていく。

その先には静かな世界が待っている。

 

誰かに何かを言われてもそのままにしておく。

自分の感情も、相手のことも。

 

難題だった課題が少し先が見えた感じがする。

 

何もしないと、課題は向こうからくる。

そして何もしないことに罪悪感を抱かない。

 

いろんなものを捨てていく。

物質も感情も自分も。

その中で残ってしまったものは真理なのかな?

 

みんな一生懸命働いている中、半分くらいのペースで働いている。

そして最低限のこと以外、何もしないことをしている。

でも自分と向き合うことはしているのかもしれない。

 

それがわたしの仕事かもしれない。

 

いろんな言葉に惹かれてきたけれど、論語は奥が深い気がする。

掘れば掘るほど深まっていくような。

時代は変わっても、言葉は変わらない。

だけど時代によって意味も解釈も変わってくる。

そんな中でも時代を超えて生きている言葉はやっぱり本物なんだろうな。

 

陰陽論をかじってみて、奥が深すぎることがわかった。

そして何だかんだで師匠に導かれていることもわかった。

実際に近しい距離にいなくても、必要な人に導かれているし、

ベストなタイミングでそれは突然やってくる。

同じ道を行く人だからかな?

 

 

 

 

 

 

自分でも知らない自分

 

複雑性PTSDかもしれない。

 

そう思ってからいろいろなことがありました。

自分でも何ながんだかわからなくて、

途方に暮れる日々。

 

そんな中、乖離の知識がある方とお話しする機会をいただき 放心状態な日々。

 

5人目が出てきて まだ奥の方にもいる気配がして、、、。

 

記憶はあるものの無自覚のうちに人格交代が行われているかもしれないという

思いもしなかった事態に唖然とするばかり。

 

気づくきっかけになったのは、人との会話でのやり取りの最中、

今の自分嫌いだな。と思うことがあって、冷静に見ていたら身体の感覚がこわばっていることに気づき、あれ?って。

会話の相手が同じ空間から消えても身体感覚は戻らず、壁に身体を押し付けて何とか戻した。

 

防衛反応として起きてしまっていること。

 

いろいろと自分の行動を意識して観ていくと

自分の知らない人格が何人かいるような気がしてぞっとした。

いったいわたしの知らないワタシは何人いるのだろうか?

 

意味があって、出てきているんだよ。

 

5人目には一度お引き取り願ったが、どうやらまた話し合いが必要なようで。

そして一人づつ対話をしていかないといけないというコトは

正直わたしにとって結構ツラい。

また一から自分と向き合うコトになる。

4人でうまくやっていて、それもなんだかんだで落ち着いて

これからやっと自分というものを生きていくと思っていた矢先の出来事。

 

再構築を余儀なくされた。

そして彼らとコミュニケーションをとっていって、統合するのか、共存するのか?

まさかの事態に困惑する。

 

まさにココロとカラダがバラバラで気持ちも追いついていない状態。

でもやっと言葉にすることができつつある。

 

自分の中で起きていることをきちんと自覚して対話をしていくこと。

これがわたしの課題のようです。

 

 

少し落ち着いてきたら、というよりも人格が入れ替わったからかもしれないが、

ボディーワークのセッションを受けて変われることが

少しだけ楽しみになってきた。

 

不思議な出来事が重なったり、点と点がつながるようなことがあったり。

少しづつ人生の地図が浮かび上がってきたのかもしれない。

 

自分でも知らない自分に出会うことは正直抵抗がある。

だけど自分にできなかったことを変わってやってくれていたことに変わりはない。

本当に入れ替わっていたとしたら、きちんと敬意を払わないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変わってくれてありがとうって。

 

 

自分の中の気持ち悪さを言葉にする

 

またまた身体感覚のフラッシュバック

いや~本当にいつまでたっても慣れません。

気持ち悪くてたまらない。

 

どうにもこうにもできないのでこの際、これを言語化してみようと思います。

 

とりあえず、この身体が気持ち悪い。

ココロとカラダが一致していないのか?以前も言ったように脱ぎ去りたい感覚。

身体を乗っ取られている感覚なのかもしれない。

では果たして誰の感覚なのだろうか?

 

宿主は誰?

 

Oリングテストみたいなことをやる時に、自分の名前で指が開く、開かないを確認してからやるらしいのだが、その話を聞いた時、自分の名前を認識していても自分で名前に納得していなければどうなのだろうか?という面倒なコトを考えてしまった。皆は名前で呼んでいるけれど、実はわたし納得していない、、、。みたいな。

 

わたしは誰か?

わたしは何者か?

 

そんな問いを投げかけるクセに、アイデンティティみたいなものを持ってやがる。

 

人間って本当に面倒で厄介な生き物だと思う。

 

そんな矛盾したことも踏まえての身体の気持ち悪さなのかもしれない。

皆で共有すればいいのかもしれない。

そこに自分とか言う意志を持った奴がいるから取り合いになるのかもしれない。

マクロコスモスとミクロコスモス。

大宇宙と小宇宙。

 

外側で起きていることは自分の内側でも起きている。

 

だとすると、わたしの身体の中では紛争が起きている。

誰に所有権があるのか?

 

いや、争奪ではなく存在肯定かもしれない。

身体の気持ち悪さの先には、恐怖がいる気がする。

それを払いのけるかのように矛盾した形で気持ち悪さがあるのかもしれない。

 

どうすることもできずに身体の中をさまよっていた。

エネルギーの向かう先は間違いなく自分の内側だ。

ただただ、気づかれるのを待っていたのかもしれない。

 

こうやってひとつひとつ来たものに向き合っていると、本当にわたしは問われている存在なのだと改めて実感する。必要だから起きている。ただそれだけのこと。

 

引き寄せの法則ってあるけれど、意図的にやっているのだと思う。

そうではなくて、結果として目の前にあった方がしっくりくる。

自分の中に意図して存在しているのと、意図的にやるのとでは全く違うものになる。

後者はこうなりたいという作為がある。それは今までの世の中と同じことになってしまう。こっちの方がいいとか、二極化というヤツ。わたしは散々これにやられてきた。

満を持して言う。選べることこそが自由である。

 

世の中にあるものはすべて必要だからあると考える。

世の中に善悪はない。

という前提で物事を考えていくことがわたしの課題のようです。

だから来たものに対して接していく。

 

というか、目の前からどうしても離れていかないものに対してどうとらえていくか

そんなこともわたしの課題のようです。

存在そのものをそういうものだと思って受け入れる?

イヤだったら何故?ではなく、わたしの何かが拒絶するもの。

 

うまくいかなくていい。

ただただそのまま受け身になる。

時が来れば、あきらめられる。

そしていつの間にか受け身がうまいわたしになる。

 

もしかしたら相手の気持ち悪さにも気づいてしまっているのかもしれない。

本人が気づかない気持ち悪さに、、、。

 

それがすべてを受け入れるということか?

 

自分との闘いだな。