かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

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ちょっとびっくりしたことがある。

完全自殺マニュアル で検索してる方が多かったこと。

今こうして私のブログを読んでくれているあなた。今までよくがんばって生き残ってきましたね。自分を褒めてあげて下さい。実感することはできないけれど、存在するだけで他者にも影響を与えているんです。関係性というものは一人では成り立ちません。いじめだって相手がいなければいじめることすら出来ない…

 いろいろな思いで検索していると思う。興味本位の人、死を考えてる人、助けてほしい人。どんな理由であれ 森羅万象には 意味があるそうです。今こうして生きていることも…。

 

私も自殺を選択肢の中に入れたことがあります。死を選ばなかったのは、ビビりなので死という選択が出来なかったから。首吊りはくすぐったがりなので抵抗がある。飛び降りは高いところ苦手なので…溺死は苦しそうだし、勇気がいる。。結局怖かったって事です。死ぬ勇気がなかった。理想としては突然死がいちばんという結論。

あと、当時読んだ本で、自殺をしたらまた同じところからスタート。→だったら我慢してとりあえず生きる。死んだら終わりではないし、死ぬメリットがみつからない。今思えば いろいろなことを考えている時点で余裕があるという事なので本当に追い詰められてはいなかったのだと思います。

 

死を考えるという事は生を考えるという事。人間としての本質、自分と向き合うという事。だから自分でも知らないうちに生きる意味を探していたんです。

死にたいと思ったらとりあえずあと3ヶ月だけ生きてみてください。そして3ヶ月経ったらどうするかその時考える。長いスパンで考えすぎると辛くなるので、ちょうどいいのが3ヶ月だそうです。ずっと同じ状況は続かない。=良いことも悪いことも永遠には続かない。という事が心理学者の方が書いた本にありました。

 

人は知らず知らずのうちに死を体験しています。そう、細胞もアポトーシス(再生回数がDNAに組み込まれていてその時が来ると死にます)していますよね。死ぬことができないと、異常な細胞となりガンの原因となってしまう。

睡眠も死という人もいます。寝るという行為は脳の整理をする事。そしてリセットする機会 イコール 死でもあるということ。続けていたことを止める というのも死だという。心が折れることも死と同じ。

このようなことを 疑似的な死 というそうです。

 

生きること 死ぬこと 選択権は自分にあります。

あなたはどちらの選択をしますか?

そしてなぜその選択をしたのかもう一度考えてみて下さい。

 

 

ホモ・パティエンス

気持ちが不安定な時でも情報収集はやめられません。(もはや病気)

検索の末、たどり着いた場所

 

ホモ・サピエンス】はラテン語で 知恵のある人間

【ホモ・パティエンス】は 苦悩に耐える人

後者はヴィクトール・フランクルという精神学者が、苦悩こそが人間の本質だ ということで作ったコトバだそうです。

人間の脳は高度に発達したが故に賢く生きるために知恵を獲得。しかし優れたが故に苦悩が生まれたという。そして充たされなくても、充たされても人間という存在は苦悩するそうです。Σ(゚Д゚) 驚愕の事実。。。

 

なぜ私たちは生きているのか?

何の為に産まれてきたのか?

私たちの存在意義とは何か?

 

秘教で人間の構造というものを学ぶ。肉体(物質界)があって➡エーテル体(生命エネルギー)オーラと呼ばれているもの➡アストラル体(感情)➡メンタル体(知性)➡コーザル体(霊的)という感じで肉体を中心に外側に広がっていく。(ネットで調べていただくと図解で出てきます。)

例えば怒っている自分を俯瞰して見てみる。怒っている➡感情 演じているのは➡肉体となる。更にもう一歩進むと何故怒っているのか?➡メンタル体

怒りというものを分解作業するとなぜ怒っているのか?何に対して怒っているのかがわかるようになってきます。(根本的な原因は何かを順を追って追っていく)

 

諸富祥彦さんという心理学者がいます。この方は私を更なる苦悩に追い込んだ方です。希望の光が見えた時に、またスタート地点に戻された。はい、もう一回行ってみようか…。と軽い気持ちで言われた感じ。そりゃあ、意味がわかるまで頭の中は真っ白だし、何が起こっているのか理解不能だった。会ったこともないが勝手に怒りすら覚えました。

 

ゴールは一つだけど相反す考え方もある。両方共間違いではないけれど、行き方や方法が違うよ~。禅の世界だと、臨済宗曹洞宗の教えの違いみたいなもの。そう、片方だけの解釈では本当の理解ではないのだ…。

 

もうこうなったら考えるしか選択肢はない。今は納得できたけれど当時は本当につらかった。無気力とはこのことを言う。それでも人は生きていかなければならない。

 

苦悩は人を強くする。逃げても、進んでも、どちらも間違いではない。無理に進んでもロクなことはない。トラウマと一緒でゆっくりと安全であることが大切だと思う。辛い思いをしたことがある人が優しいのは経験しているからその人の状態がわかる。深い意味での理解があるからこそ本当の意味での寄り添いができるのだと思う。あなたを必要としている人は必ずいます。これも立派な生きる意味…

愛するとは自分を追い越すことだ

 

学生時代大好きだった人に言われたコトバ。

 

何年か前ふとこの言葉を思い出し、検索するとオスカーワイルドという人物の名言だという事が分かった。本人が作ったコトバだと思い込んでいた。

20年もの年月をかけて再び私の元に届いた。今なら何となく判る気がする。言いたかったこと、伝えたかったこと。彼の事を考えると胸が痛い。幼かった私。いろいろごめんなさい。

 

何にも考えずに追いかけていたけれど、知らず知らず哲学的な人に惹かれていたんだなと…。そして、きっと彼も人一倍苦悩していたのだと思う。一方当時の私は、感情全開で生きている、良く言えば人間らしい生き方だった。だとすれば彼に与えていた影響は少なからずあるだろう。今の私は何も考えずに行動できる人に憧れるから。

 

かなわない恋だったけれど、今思い返せば実は大切にされていたのかもしれない。本当の愛って何だろう。自分のモノになってしまった時点で気持ちは下がっていく。でも手に入らないものでも…。時間が経てば忘れるか、飽きてしまう…。

 

生活に追われ忘れてはいたけれどきっかけがあって思い出す、という事はやは人生の中で意味のある事だと思う。恐らく彼もまた何か事あるごとに私という存在を思い出しているかもしれない。(そうであってほしいという願い)お互いに何かしら影響を与え合い生きる糧になっていれば幸いである。

 

あの時 ”愛してる” の意味を模索しても全然答えなんて見つからなかった。今やっといろいろな経験を経て”愛してる”の意味が分かった気がする。

所有するモノではなく、共有するモノ。

愛の力で自分の能力を超える何かが起きる。という解釈の仕方が多かった。うん、なるほど~と。

私の考えは、自分が中心で自分を取り巻く何かが変化している、それを私が俯瞰している、。自分の横を通り過ぎて行くと思っていても、もしかしたら私がそれを追い越していくのかもしれない。

モノを見る方向性の違いで見えているものは全く違ってしまう。だからこの自分を追い越すって本当は相手に優しく寄り添えることなんじゃないかな?自分を追い越すこと…目に見えるものではなく、目に見えない優しさこそ本当の愛なのではないだろうか?

 

彼からの永遠の宿題。答え合わせしてみたいな…。

 

 

ココロの友

ここ何日か、気持ちが凹みがちで疲れていた。

ちょっと彼女と話がしたいな。と連絡をし、会うことになった。

 

仕事が終わって夕食をとった後に行こうと思っていたが、『夕食あるもので良かったら一緒にどうぞ』という。ありがたく頂戴することにした。

おばあちゃんが作った野菜の煮物。焼き魚。茹でた菜っ葉。納豆。

これまた不思議な感覚になる。いつも遊びに行くと居間に通される。でもこの日は食卓へ。いつもの日常が垣間見え、見てはイケないものを見たような…。でもあえて見せてくれたような。家族の一員になったような、認められたような。「おかえり」って言われているようだった。

 

彼女とは声楽の先で仲良くなった。それから意気投合し、今に至る。お互い感情移入が上手なので何が何だか分からなくなってしまい、私が拒絶してしまった時もある。(ごめんなさい(ノД`)・゜・。)

今回会って新しい気づきがあった。

お母さんの様な暖かい存在。受容してくれる存在だから私にとって彼女は居心地が良いのだ。本当にありがたい存在。今まで知らないうちに甘えていたんだな~。これからはもっと彼女に甘えよう♡いつもありがとう!

 

 

 

至高体験

幽体離脱をした方に出会い、話を聞いたことがある。

1人は突然倒れ病院に運ばれ死亡確認をとった後お戻りになられ、看護師さんに絶叫されたとか。

もう1人は過労状態で、夜中寝ていたら幽体離脱してしまい、散策した後、ご自分で戻ってこられたとか…。

 

私は奇妙な体験をしたことがある。

面白い人がいる。と言われそんなに言うなら会ってみようと。

とある声楽の先生だった。個人的には何も面白くなかったが、実際に会ってレッスンを受けた後、先生の夢を見た。夢の中で何だかわからないけれどこの上なく楽しくて仕方ない気持ちになった。今までに感じた事のない湧き上がってきてしまう何か。とても心地よく、完全な感じ。特に楽しい夢を見たわけでもなく、楽しい事があったわけでもない。このことを先生に話したら、『あ~私の母親の影響ですね~』と。私には理解不能である。

 

その数か月後、夢を見ていたような、ないような。目覚める少し前の事。DNAの2重螺旋が2~3本頭頂からズドンと体内へ入り込み、その後、泡のようなモノが身体から溢れ出し、この世のモノとは思えない何とも言えない至福感に襲われた。言語化するなら、平和、愛で満たされた感じ、ニュートラル、。泡と共にその感じは消えていったが、何とも言えない不思議な時間だった。

当時、ちまたではやっているスピリチュアルに興味があった。特別な体験だと思い、ちょっとした優越感にひたっていた。ただ、だからといって何も起こらなかったし、変わらなかった。

 

最近になって、ケン・ウィルバーインテグラル理論について調べていたら、至高体験について書かれている記事を目にした。そこには至高体験をしたからといって特別なわけでもなく、私は特別な人と思い込む方が危険だ。と…。危なかった。自分を戒める。誰にでも不思議な体験はある。他者が経験したことのない快楽的な事を経験すると、どうしても優越感に浸ってしまう。だから何だということ。体験した事は経験となるが、自分の中には何も残らない。なぜこういう事が起きるのかはわからないが、試されているのかもしれない。自分を過信しない事。”人間が成長していくという事は自己中心性が小さくなっていく事”とインテグラル理論の中では語られている。自分の中の大きなエゴは誰もが保持している。ただ、何かのきっかけで突然でできてしまうことだってある。行ったり来たりしながら進んでいく事が含んで超える。という事。慣れてくると理性が活躍してくれるんだろうな~。

人間の進化って面白い。

身体からのサイン

『手にボツボツが出来て痒いんです。』

職場の子がポツリと言う。私も経験があり、皮膚科にも罹ったことがある。環境の変化とかストレスかな~?なんて言われたことがあった。

 

何日か前から謎の蕁麻疹のような湿疹のようなものが手の甲にお目見えした。

夜になると出で来る。今日はお風呂上りに。

 

 何年か前、山芋をすった時、痒いな~と思ってポリポリしたら、なんだこりゃ~というのがはじめての蕁麻疹だった。そしてきゅうりの葉っぱもNG。いずれも接触性のモノだったが、今回は何も触っていない。

 

考えられるのは温熱蕁麻疹。

東洋医学的には体の中の熱が体外に上手く排出されない為、皮膚に症状が表れるという事らしい。巡りという点では呼吸器系、肺も関係しているのだとか。泣きたいのに泣けない的な症状もあったので身体の何処かに詰まりがあるかもとは思っていた。詰まったトイレと同じである。

西洋医学だと、ストレス?自覚のないストレス。トラウマに関係があると思う。無自覚の反射が身体にプログラミングされてる。

トラウマが筋骨格系と関係があると分かった時、衝撃を受けた。いろいろなアプローチの仕方があるが、いちばん安全なのは知らないうちに身体のクセと共に解消されることだと私は思う。長い間身体に保持しているものがある日突然なくなったら身体は困惑するだろう。それがまた身体に影響してくる気がする。

人は悪いものは排除したがる傾向にある。ただ排除しても根本的な事が変わらなければまた違った形でわたしに訴えかけてくる。時間をかけて少しづづ向き合う事。とても根気のいる作業だけれど、昇華された時は、向き合ってきた時間は無駄ではない事に気づくであろう。

 

 

苦しみから産まれるもの

気がつけば6時間。穏やかに時間は過ぎていった。帰る途中、苦しくて仕方なかった。この苦しみは何だろう?

服飾系専門学生の時代に遡る。洋服のデザインが思い浮かばずスランプに陥る。

もがき苦しむ日が続いた。苦しみの果てに産まれた作品は今でも捨てられずにいる。そう、この時の苦しさと同じだった。症状が解ると少し落ち着いた。

とある人に会うと緊張したり、身構えたり、思い出したり、いつもは意識しない自分が見えてしまう。何かが起こる。私の中で化学反応が起きてどうしていいのかわからなくなったり…普段は絶対湧いてこない感情が出てくる。だけど今回ようやく自分と向き合う事ができたのかも。そして、冷静に対面している時の自分の分析がその場でできた。そうすることで自分の癖や、傾向、いろいろな気づきが生まれる。

まだ身構えている自分がいる。遠慮している自分がいる。どう接していいのかわからない自分がいる。ここからまた自分なりに分析を進める。なぜそうなるのか?少し時間が経つと微細なものが見えてくる。余波のように広がっていく余韻のようなもの。

産みの苦しみの理由…新しい自分を再構築していく事の難しさ。本当の意味でもう一度自分の人生を作っていく。ここからは自分の力で行きなさい。と言われているような。見守られながら突き放される的な。関わり方がわ変わっていくのかもしれない。1周回って反省会的な事が知らない間に繰り返されていたのかもしれない。原点に戻る。そしてもう1周してみようかな?的な。きっと見えなかったものが見えてきたり、新たな世界を見ることができるのかもしれない。味わい深い、言葉では言い表せない世界が…。

 

 自分でも気づかないうちに一般的には進まない方向に進んできた。高校生の時、どうして自ら底の方に落ちていくの?と友人に言われたことがある。上に進むと下に落ちるのが怖かった。ならばいちばんどん底まで行けば後は上がるだけ。それ以上底はない。という考えだった。苦しみを無意識のうちに選択していたように思う。

苦悩は人を強くする。心理学者や哲学者は苦悩に満ちた人が多い。苦しまないと人は成長しないらしい=発達しないという事。私は自分でも知らないうちに選択していた。二十歳くらいの時、誕生日が同じ彼がいた。若いながら結婚を決めていた。だけど最後の最後で自分から身を引いてしまった。本当に文句のつけどころのないような人だった。この人と一緒にいたら私はダメになってしまうのではないか?怖くなってしまった。優しすぎる彼、私よりもっといい人がいるのでは…彼と別れた後、彼のお母さんから一度会ってほしいと連絡があり、おかしな彼女ができて困っていると相談されたが、その後の状況は知る由もない。

 私はその後、出会った人と結婚し、いろいろな苦悩を経て離婚へ至った。訳の分からない苦悩のお陰で今の私がいる。今は適度な距離のお陰で円満な関係である。

 

どちらの道に行くのかは自分で選択できる。良いも、悪いもない。もちろん育った環境とか、トラウマ的なものはあると思う。だけどトラウマがあるからこそ強く生きれたり、トラウマという経験があるからこそ人は成長するのではないだろうか?

トラウマのない人なんていない。それをどう生かすか。

 

良いこと、楽しいこと、陽の部分が良いとされているけれど、失敗とか挫折とか、陰的な部分の方が本当の意味で人間を成長させてくれると私は思う。より良い世の中にしていくにはどうしたら良いか?、本当に豊かな人生とは何なのか?これからいろいろな意味での本質が問われる時代になるのでは。

 

マイナスは悪いこと あの時言っていた言葉の意味がようやく理解できた…。ここまで来るのに3年かかったかな。

マイノリティの人生はは孤独な旅です。だけど決して1人ではない。たくさんの経験と智慧は肉体を離れても決して消えることはない。