かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

優しさが怖い

新年早々、自分への癒し的な事がもたらされた。

いつもは行かないスーパーへ行った帰り道、いつになく自分のココロが乱されることにきづく。

 

二十歳の頃、付き合っていた彼に似た人が突然わたしの視界に入ってきた。

なんだか切なくなってくる。

あなたは自分が幸せになることが怖い。

カウンセラーに言われたコト。

いろんなことを学んできた今、自分がとってきた行動がどういうことなのかがよくわかる。

自分から幸せになることを拒否してきた。

機能不全な家庭環境で育ってきた人にとって、否定が前提なので自分の存在すら肯定できなくなる。それさえも無意識に自分の中に当たり前のように存在する。

あの頃のわたしは彼の優しさを受け入れることができず、拒絶していた。このままではわたしがダメになると勝手に思い込んだ。だけどそれはわたしの単なる思い込みで、、、。嫌われるようなことをたくさんしてきた。それでも彼はわたしを受け入れてくれた。だけど本当に怖かった。

別れることを伝えたわたしに言ってやりたい。彼が優しいのはお前のコトを受容してくれてるんだぞ~。そしてお前には幸せになる権利がある。お前より彼の方がお前を大切にしてくれてることに気づけ!

まさに自分を愛せない女だった。まぁ、自分の心のメカニズムがわかっただけでも良しとしよう。もう一度彼と話したい気持ちもあるが、押しかける勇気もない。運命ならまた再会できると信じ、自分自身の癒しを続るとしよう。あれからかなりの年月が過ぎたが彼のココロは大丈夫だろうか?あの時の自分、今の自分、両方とも向き合っていかないとな。

自分の人生を自分自身で生きていけるよう素敵な人間になるべく精進して参ります。

 

彼の人生が平和であるよう心から祈っています。そして出会えたこと、深い愛を教えてくれたことに敬意を表します。

やる気のない日々

前回の投稿から1ヶ月以上も空いてしまった。途中何度か書きたいことはあったが、まとまらず。そんなことをしている間に本当に何もする気にならなくなった。

 

そんなわたしに神は課題を与えた。ベビーマッサージの手伝いをしていた方から連絡があり、オンコロジータッチについて教えてほしいとのこと。そりゃあ、勉強しには行きましたが、、、、。叔母を触っただけでそんなに教えられる立場ではないと申したが、やる事になった。テキストを引っ張り出して読み返すが、4日間でやったことを2時間程度にまとめるって、、、。とにかく伝えたいコト、自分なりにまとめよっと。

 

講座の時にアポトーシスの事を知った。自分の中で自分の細胞が死んでいるというコト。これにわたしは救われた。めちゃくちゃ幸せな気持ちになった。ということを考えてきた私にとって自分自身が死ななくても細胞はきちんと死んでくれているという安心感。自分の中で確実に死というものが行われている。なんだかホッとした。そんなことを思い出した。

 

自分の視点が他人とは違うというコトが、人を通してわかってきた。自分のディテールが浮かんでくるように、自分というものがはっきりしてくる。わたしにしかできないコト。それはやっぱり経験したこと。イイこともあるけれど、イヤなことの記憶が多い。だけど仕方ない。わたしの脳みそが偏っているからで、でもそんなことも人の痛みがわかるようになるためかもしれない。やっとそう思えるようになった。人の痛みに共感できること、それが自分自身の癒しにも繋がる。なんでこんなフツーではない人生なんだろう。。。と思うが仕方がない。それさえも受け入れないとやっていけない。

こんなんでいいのかな?って思うけど、、、。トラウマだから仕方ないと諦める。し、言い訳にする。少しづつでいい。焦らないで行こう。目に言えなくて何も変わっていないかもしれない。だけど目に見えない何かが変わっているはず。今まで生きのびてきたわたしに言いたい。死ななかったのが奇跡だよって。

これからわたしの人生が始まるのかもしれない。

 

苦悩の果て

苦しさ。何とも言えない苦しさ。そんなものと同居している。本来同居する必要はないのかもしれない。ついつい苦しさに向かい合い、自問自答しては自分を苦しめる。というより勝手に苦しんでいるんだろうな。悲劇のヒロインみたいに言われるけど、動けない苦しみというのは経験した人でないと分かり得ないこと。

だけどそんな苦しみももういい。疲れたし、解ってもらえるものでもない。

だとしたら自分自身で腑に落とすしかない。そしてそれを世の中で役に立たせる。同じような渦中の人達にうっすらと希望みたいなものが湧けばそれでいい。わたしは知る由もない。孤独だ。そもそも癒しというものはそういうもの。上辺だけのキレイごとは深い癒しではない。自分との対話。ツラくても、苦しくても、死にたくなっても、どんな自分でも受け入れる。とことん味わい尽くした末にしか見えてこないもの。自分と向き合うコトって誰にでもできる訳じゃない。現代では生産性のないコトかもしれない。だけど向き合った分だけ自分の存在価値というものが確実に見えてくる気がする。否定することでしか自分という存在を肯定できなかった。だけどそれ自体自己肯定ですらある。自己否定の先に見えてくるもの。それで自分の輪郭が見えてくるのならそれはとても意味のあるコト。そろそろ幻想から目を覚ます時。本来の自分。あるべき姿。自分の在り方を構築していく。

ついつい自暴自棄になり、自分を見失う。訳のわからない出来事に遭遇する。そんな中でも自分を見つけ出し、渦中にいることを認識する。そうしないとそこからは永遠に出ることはできない。抜け出したいのであれば自分と交渉し、再交渉する。違う自分、違う認識、違う世界で生きるという決意。何事も自分次第である。自分がどうしたいか?パソコンなら初期化すればいいコト。だけど人間はそうはいかない。思考というものだったり、知性というものが邪魔をする。

苦悩というものと随分と長い間付き合ってきたが、やっと自分の中で道筋が見えてきたような気がする。自分が自分で在るコト。それが生きるというコト。苦しみの中から見えてきたもの。自分というものと向き合うことで、誰かが生きるというコトに対して疑問を抱いていたら、それは新しい自分へとつながること。苦しくても必ず道は開ける。こんな時代だからこそ真理や本質と言われるものに向き合って自分らしく生きる。わたしの通ってきた道は、誰かも通ってきた道であり、これから誰かが通る道でもある。決して一人ではない。孤独かもしれない。同じ境遇の人が近くにいる訳でもないかもしれない。だけど世の中には、同じような人がいる。そんな見えない現実が生きる支えになるかもしれない。

乖離するというコト

久しぶりにわたし以外の3人が集合した。

びっくりするほど意気投合。

それはもう見事だった。

 

そして自分の中で確実になったコト。ゆっくりと流れるような感覚が好きだな~。そうそうこの感覚って。

ゆっくりじゃないと見えないもの、気づけないコトがある。毎日忙しく考える暇もないくらい動いていれば思考停止になって何も考えなくてもいいかもしれない。自分にとって本当に心地いいモノ。そんなことに改めて気づかされた。大丈夫だと思っていたものが実は違ったり…。そう考えると自分でも解っているようで全然勘違いしていることばかりなのかもしれない。生育環境、集団生活。知らないうちにこういうものだよって洗脳されている。

 

乖離がおきて、満場一致となった時、お願いされていたことを断った。その時はいろいろな事が重なっていたからだと思っていたけど、少し時間が経って初めて4人目が出てきた時のことを思い出した。追い詰められて人の目を見て話せなくなった。そんな時だったな~。というコトは相当なストレスを感じていたというコト。そんな彼らだが、最近はあまり出てこなくなったところに、やめろ~って出てきてくれたのかもしれない。今回はいい意味でわたしを助けに来てくれた。そう考えると危険な状態が乖離することで確認できると思ったらとても素敵な機能だと思えてきた。

断ったことに対していろいろな葛藤もあったが、心身ともに変化も。部屋の片づけをし始めたり、ゆっくり呼吸をすることを思い出したり。そんなことをしていたらまたストップしていたインテグラル理論の学びを始めようと思った。自分の中で考えるコト、これは死ぬまで続けようと。そしてそれを言語化していく事。自分の言葉で表現する事。それは自分の生き方であり、道でもあり。

 

この半年間、いろいろな出会いがあったけれど自分を再確認するためのモノだったのかもしれない。無意識に選択しているけれど、表層下では意識的に動いているというコト。だからこそ、自分にとって心地いいと感じるコト。この感覚を大切にしていきたい。

 

そして本格的に自分と向き合っていくことになりそうです。

答えがないもの

最近好きになったクラシック音楽

カラダの使い方という事でピアノの弾き方、いろんな人の演奏を見ていてはまってしまった。同じ譜面んを見て演奏しているのに表現方法が全然違う。何人か好きな感じはいるけれど全てを引き込まれていったのはカティア・ブニアティシヴィリガーシュウィンのラプソティーインブルーの演奏で魅了された。何か奥深さを感じる。そして只ならぬ存在感。何かを乗り越えた人にしかない何か。だからこそのブレない何か不確かなモノ。そんな何かに無意識に惹かれていく。

 

いろいろな表現方法があるけれど、そこにはその人が本来持っているものが映し出されるし、垣間見れる。その人でないと表現できないもの。

それぞれ違うけれどそれがきちんと構築されている人は美しい。それは音楽でも、普段の生活でも同じだななんて思ったりする。構築というよりもあるがままの自分を受容した上で生きている人。それがブレている人は何となく違和感を感じたりする。そしてありのままの自分を生きている時、全ては自分に味方すると思う。自分しか信じるものがなくなった時とでもいうか、何も頼るものがなくなった時、唯一無二になれるとでも言おうか。みんながそんな状態だったら世界平和に繋がるのではと思った。

 

施術において自分にしかできない世界観をつくっている。今までは劣っていると思っていたが、そうではないこともある。みんなが感じれないことをわたしは感じている。だからそれを生かしていこうと思った。みんなには見えていないもの。結局それがわたしの背負っているものだったりする。ボディ・マインド・スピリット 全体的なバランスが必要だとしていちばん好きなのはボディかもしれない。この世界で肉体なしでは存在できない。細胞分裂の結果、筋骨格系、体内を流れるもの、内臓、わたしという鋳型が形成される不思議。造形物として、自然の産物として美しいと思う。ボディからマインドへつながる道は脳であり、ボディの一部だと。東洋の世界では心身一如。西洋では心身二元論。わたしはどちらかというと二元論派だけど、心身一如へ向かうことでボディ・マインド・スピリット的なホリスティックと言われるものへ向かっていく道となると思う。二元論派の理由は、何と言っても乖離してしまったからわたしというパーソナリティーが単独ではない。わたしは何人かの人で構成されている。決して一人ではないので心と身体は繋がっているというよりも繋がるようにする。という感覚になってしまう。

 

結局のところ、答えがないものが好き。そしてそのことについて考えるのが楽しいのだと思う。誰にも邪魔されずに自分の世界観を作り上げていく。誰にも理解されないかもしれない孤独な世界。哲学も一緒だと思う。曖昧なモノを統合しようとすること。一筋縄にはいかないし、万人に解ってもらえる世界ではない。だけど考えるコトが板についてしまっているわたしは考えていない。といっても無意識で自然にやってしまっていると思う。だからこそ自分の考え抜いた世界観をわかる人だけに伝えていこうと思う今日この頃。

人生に意味はない

人生は幸せになることが目的ではない。宮崎駿さんが言っていた。

 

やっぱりこういう言葉にすごく惹かれる。

 

自分の中でしっくりこないことが結構多かったりする。

自分の中の方向性を見つけたかったんだけど実はそれが間違いだったことに気づいた。世の中には組織というものがある。いわゆるピラミッド。だけど何年か前に気づいてしまった。なんだこれ、、、。そして生きづらさ。わたしは三角の中に入れなかった。一般的に社会不適合者というヤツだと思う。

 

何処に行ってもみんなと違うコトが多い。慣れたけど、周りに説明するのも面倒。そんな中、方向性を決められるのも嫌なのかもしれないことに気がついた。結論から言うと、嫌でなければ、流れのままに動いてみる。自分がないように見えるが、無くはない。自分がこうしたい!という主張はないけれど、これは違うという感覚的なモノはある。目的を持たないことで道ができてくる。今までとは違う方向性。今までだったら考えられないけれど、これこそわたしの進む道ではないかと思えるようになってきた。自分のやりたいことをやる!という事に抵抗を感じる。適材適所という言葉があるが、これは忘れてはならないと思う。できるとスキはまさに別物。何となくだけど自分の事を宝の持ち腐れだと感じる時がある。誰かわたしを上手く利用してください。と。できるけど活かし方がわからなかったり、、前に出るのが苦手だったり。だったら流されて、結果そうなっちゃったみたいな。考えが甘いかもしれないが、欲もない。そして「自分」というものさえ捨てなければいけない気がする。

 

占星術とか、少し深く見ていった時に自分の持っている力は人の為には使えるが、自分の為には一切使えないというのがあった。妙に納得。いかに自分というものを殺して生きていくのかがわたしの人生なのかもしれない。そうすることによって見えてくるもの、自分、人間とは何か今までとは全く違う視点で物事が見えてくる。今までの自分への問いかけが覆される時、というか覆されつつある。再構築から脱構築という感じ。これがパラダイムシフトってヤツかもしれない。

 

最近わたしはかなり変わっているという事を再認識した。いろんなことがある中で自分は自分の事を掘り下げすぎているのではないか?と思いネットで検索を始めた。自分と向き合うとかそんなありきたりのモノばかりの中、深く掘った先には宇宙との一体化というものが出てきた。俗にいうワンネスってヤツだと思われる。だけどそこに行くまでには顕在意識から潜在意識をひとつづつ見ていかなければならない。簡単に言うと承認欲求、固定概念、存在価値、ワンネスという感じ。わたしこれ、全部やってきたわ。ただ、ワンネスはまだわからない。掘り下げると人によっては本当に病んでしまう人もいるらしい。病みながら、苦しみながらやり続けたわたし。答えがあると思ってやったけれど、1周廻って禅問答みたいな感じだった。人生はひとりひとり違うように、それを生きる人間も違う訳であって、正解なんてない。だから自分の答えを自分の中に見つけるしかない。辿り着いた答えは人生に意味はない。これからはワンネスという課題と向き合う。自分はもういい。

みんな、何かがあるとそこから抜け出そうとしたり本来あった状態に戻そうとする。そうではなくて違うコトを模索するという事も選択肢の一つであり、それこそが自己変容の道なのかもしれない。

 

今までの人生を振り返ってみて一般的にツラいコトが多かった。自己肯定感も低かった。だけどいろんな経験を通して全体的に解ったことはこれはすべてプロセスであり、これがこれからの人生で絶対に役立つし、自分の強みになる。むしろ自己肯定感が高くなる気がする。ここまで来たらもう怖いモノもない。失うものもない。人はいつか死ぬ。みんなが持っていないもの。目には見えないけれど一般的にはマイナスと呼ばれるモノこそ人生の宝物かもしれない。誰にも捕られることもなく減ることもない。やっとこれで良かったんだって思えてきました。

 

人生の意味。見つけようと必死だったけど、意味はない。歩いてきた後に意味ができるものかもしれない。めちゃくちゃ深いと思う。

 

ごみ箱

自分の人生を振り返って思う事。

 

どこに行ってもみんなの意見を聞いたり、仲介したり、他人から罵声を浴びたり、、、。わたしはごみ箱かもしれないと思った。口が軽くもないし、受容力はある方だと思う。だからいろんな人にいろんなことを言われる。良いことも、悪いこともある。わたしの人生は一体何なんだ???と思っていたが、もう変えることは不可能だと思い、自分を生かす方にシフトしようと思い始めた。諦めるというか、そうせざるを得ない。自分の体験を生かして他人の人生のシフトチェンジのお手伝いができればと思う。

先日、施術の練習を何人かでやっていたら、ひとりの人がわたしが触った時、皆とは違う感覚になったという。そしてその後、つまりがとれて流れた感覚があった。先生にはない何かを持っているかもなんて思った。恐らく先生は外側から働きかけるのが得意だとしたら、わたしは内側から働きかける方が得意だと思う。師匠が違うという点もあるかもしれないが、恐らく触り方がみんなと違うと思う。し、言われた通りにはやっていない。師匠と先生のいいとこどりをしつつ、自分の世界観をつくっている。

そしてみんなと出会った事でみんなの中にいろんな自分を見つけるコトができた。以前のわたし、こうだったな見たいな人もいれば、じぶん、こんな感じだよな。とか。客観的に見れる能力って、みんながみんな簡単にできることではないという事もわかった。でも結局、みんな最終的には承認欲求に辿り着くのかな?なんて思ったりもした。その奥には寂しさや孤独が見え隠れしている。本人ですら気づかないもの。わたしは自分でわかっていてもどうすることもできなかったりするけど、人に関わり、人を癒すことで自分も癒されていくのかもしれない。というかその道しか選択肢はないのかもしれない。

 

いろいろ試行錯誤しながらだけど、自分にしかできないコトを出していこうと思った。触るコトは相手に触れるコト。内面に反応が出るという事は、心の動きに寄り添う事。だから、優しく、ただ共にそこにいる。見守る。共感というか、伴走というか。場のホールディングみたいな。ただ優しく触れるだけで人は変わっていく。カラダには自然治癒力というものが誰にでも備わっていて、本来の自分というものとかけ離れているとそれは作動しない。カラダにはカラダの意思があり、人間はそれに気づいていない。本当はその問いかけに気づかなければいけない。わたしたちがコントロールするのではなく、わたしたちがコントロールされる側である。それが自然摂理。

 

いろんなごみを捨てられるけれど、ごみ箱の価値って大きいかもしれない。器があるから捨てられる訳であって、ポイ捨てとは違う。でもみんな無意識にやっていることに気づいていないんだよな~。報われないことかもしれない。だけどこれが人生の課題なのかもしれない。満たされない何かは果たして満たされる時は来るのであろうか?