かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

ものさし

プライベート、仕事、何かありそうな感じがする。

 

そんな中、また人間って何だろう?って。

自分のものさしと他人のものさしは違うという事を人に話すことが何回かあった。自分が気づいたこととして伝えているのだが、なかなかこれが伝わらない。自分が思う自分と他人が思う自分は違う事がある。という事。自分ではできていないと思っているけれど、他人から見たら、できてる方だよとか。

ものさしので図るコトすらわからない人って結構多い気がする。

 

そして自分の事が自分ではいちばんわかっているつもりでわからないというのも事実かもしれない。ジャッジしないというけれど、他人と自分を比較するからこそ自分の能力とか、いろいろなモノの得意不得意がわかるのであって、ひとりだけでは絶対にわからないコト。自分の立ち位置を見るという点では必要な事だと思う。だけど人はすぐに劣っているとか、長けているとか、そういう視点でモノを見るクセがある。そうではなく、比較した上で、全体から見ると自分って実はダメだと思っていたことが他人から見るとできていた。とかその逆も然り。それを踏まえた上で、ジャッジしないという事。良いとか、悪いとかではなく、ありのままを観る、感じるという事。それに理由はいらない。勝手に解釈が起きているという事。

 

運命と宿命という言葉がある。最近占星術について考えさせられる。産まれた時に決まってしまう事があるという。今までは占いは占った瞬間に人生が左右される、言葉にもっていかれると思い避けていた。が、、、。輪廻転生があるとしたら、、、、。何でかわからないけれど人生には人それぞれ課題があると思う。そう思わなければ腑に落とせないからかもしれない。

宿命とは命が宿るという事。これは必然。変えることのできないもの。運命とは命を運ぶという事。自分次第でどうにでも変えられる。という事をどこかで目にした。

世の中も星の動きが関係あるとのコト。だとすれば、人間界でも…。ある程度その人に定められたものがあるのだろうと。どうすることもできないコトを受け入れていく事で人は成長する。パラダイムシフト的な。そうしないと世の中の動きについていけなくなる。と言っても過言ではないくらい自分自身の変容が起こると、今までとは全く違う世界で生きていけるようになる。

 

わたし自身一般的ではない環境の中で育ってきた。自己肯定感は極めて低かった。自分にもわからない形で自傷行為は行われていた。他人にわかってもらえることはなかった。し、環境や過去は変えられない。いろいろな事をバラバラにすることで腑に落としてきた。というか自分に言い聞かせてきた。そして、いつしか、この苦しみはわたしだから乗り越えられる。他の人だったら自殺しているかも。と思うようになった。そうするとわたしスゴイじゃん。こんなことがあっても生きていられる。死ぬ勇気もないし、なんとかお金もある。きっと誰かが、生きていく上で必要なものは与えるから、自分と向き合って来いと言われている気がしてきた。相変わらず、なんでわたしが、、、。という事は多い。そんな時は訳のわからない星回りなんだろうな。と思うようになった。仕方がない、どうにもできないコト。

 

楽しみながらやっていく。

いつか師匠に言われたコトバ。

いったいこれは何なんだ~!って思うけれど排除したものはお化けになって返ってくる。という言葉を思い出した。きっと師匠も通ってきた道。道は既にできているから大丈夫。ただ歩いていくだけ。師匠まで用意してくれた。ひとりではない。

そう思ったら、わたしは幸せなのかもしれない。そしてわたしの後に続く人の道標になるべく、、、。わたしがそうしてもらったように。

苦しみと共に

1ヶ月程、いろいろな感情と闘っている。

 

死にたい感じになってわかったこと。吐けない方が苦しいというコト(笑)

泣けそうで泣けない感じも同居しているので、これもツラい。出るものが出ないってことだから。中途半端なこの感じ。どうにでもなれ。と思うのだが、どうにもならないのも事実である。自分が思ったようにはならない。ということは、どうにもならないコトに気づかなければいけない。そうしないと、同じことの繰り返し。どうにもできないコトは受容するか、共存するか。もしかしたら自分の中で納得できていない部分があって何度も私にお届け物をしているのかもしれない。だってあまりにもしつこい。

 

なんとなく死にたい感じからは抜けつつあるが、まだ苦しい感じは残っている。感情は気持ちだけど、感覚は体感。そう思うと感情は気持ちでしかないからどうにでもできるような気がする。体感は感覚というか感触として残る分情報量も多いし、感情とは違う側面を持っている。感情よりも生々しい。だからこその苦しさがある。肉体が感覚を感じているのであってわたしが感じているのではない。ってことは、感情と同じことでもあるってことか。乖離のお陰で俯瞰能力は長けている方だと思うが、、、。内在性乖離は感情だけが切り離されている。のに対して多重人格の方は全てが切り離されるから記憶として残らないんだろうな。自分の中で起きていることがわかってきたので、上手く付き合っていけそうな気がする。

自死

相変わらずつらい日々。

 

とうとう死にたい感じになった。とはいえ死なないけれどそういう気持ち。そりゃぁそうだ。幼少期から死のうと思っていたからこの感情が出てくるのは当たり前だろう。

 

何でこんなに苦しいのだろうと思うが、当時のわたしはもっと苦しかっただろう。幼かったし、この苦しみを共有できる人はいなかったのだから。そりゃぁどうすることもできないよ。そう思うと、本当によくぞここまで生きてきたと思う。小さい頃から死を考えていたわたし。何故死のうと思っていたか?それはわたしの存在理由がわからなかったから。怒られたり、誰かの機嫌が悪かったり、いろんなことが重なっていく上でわたしがいなければ自分はこんな嫌な思いをしなくてもいい。そう思ったから。だけどわたしが死んだところで、誰も悲しまないし、きっと死んでも何の問題解決には至らないと判断した。だけど幼いわたしにはどうすることもできなかった。死のうと思ったわたしは何故生きるのか?存在するのか?にシフトしていく。

 

生活面で困ったコトはない。むしろ恵まれていた方だと思う。だけど、精神面ではボロボロだったな。ツラかったり、自分を追い込んだり、決して幸せだとは思えなかった。振り返ったり、過去と対面して感じた事は自傷行為が本当に多かった。過食も、恋愛も。もしかしたらそれは私の意思ではないのかもしれない。先祖から受け継がれるモノが少なからずあると思う。

わたしは幸せになる権利がある。癒される権利もある。ずっと苦しんできた。自ら進んでそうしたのかもしれないが、そろそろいいかな?って思う。想念パターンを変えたい。自分を傷つけることでしか自分を守れなかった。だけど人生の折り返し地点、そんな自分に違和感を感じる。もういいよって気づき。凍り付いた身体は解け始めている。過去だと分かっていても結構つらい。死にたい感覚。身動きが取れない感覚。どうすることもできないけれどそんな自分と向き合っていかなければ前には進めない。自分の中のシャドウと向き合って、和解というか、折り合いをつけていく。静かに嵐が通り過ぎるのを待つ。わかったよ。あの時の気持ち、届いてるよって。自覚して受容する。そのままの気持ちを色付けしないでそのまま見てあげる。そうなんだねって。どうにかしようとしないコト。言われ続けてきた言葉が自分の中でリフレインする。

 

結構な深さまで沈んでいる気がするけど、浮かんでいくのはやめようと思った。以前養老先生が言ってたこと。どん底まで行ったらもっと掘れ。掘らないと先には進めない気がする。浮上したらいつかまた同じことが起こるだろう。掘っていったら何かが見えるかもしれない。し、見えないかもしれない。わからないけれど、、、。

 

いろいろな苦しみがある中でいろいろな気づきもあった。輪廻転生で生まれかわるって言うけれど、気づかないままだと同じ事が繰り返されていくと思う。生まれ変わっても、自分=魂は変わらない。つまり生まれ変わったらなんて都合のいい話な訳であって。だとしたら、自分と向き合うしかないと思う。幸せは苦しみの中からしか生まれないって。そして苦しみは幸せからしか生まれない。仏教の教えってすげぇなって思う。人としてどう在りたいか?そんな時、自分を立ち返らせてくれるモノ。

 

どん底にきてると同時にどう在りたいか?そんなことも気にかけていかないといけない時期なのかもしれない。今までの自分が自分ではなかったとしたら、今度はどうするか?みたいな。自分の人生を生きていくってどんな感じなんだろう?

シャドーに光を

吐き気がするのに吐けない苦しさ。

最終手段で指を入れても吐けなかった。

 

がしかし、これがトリガーとなって更に私を苦しめた。

過食嘔吐の事を思い出した。

吐き気もするし、気持ち悪いし、胃も痛い。だけど食べたい。とにかく食べたい。何もかも忘れて食べたい…。衝動が抑えられず、食べたというよりも飲み込んだ。やっと吐けた。

 

高校生の時、軽い摂食障害になった。

大人になってからも何かある度に過食になって胃を壊すというサイクルを繰り返していた。わたしの中の ”満たされない何か”。

 

ネットで検索すると摂食障害の場合、痩せたい、、、とかがほとんどだが、私の場合、自傷行為としての行動だった。結局は自分を守るための行為。またの名を叡智と呼ぶ。

どうしていいのかわからない心の叫びであり、自分を傷つけることで自分を守ってきた。飲むように食べることで自分の中で消化しようとしていた。だけど消化できていないから、こうして苦しみながら私の体の中をさまよっていた。今か今かとタイミングを見計らって出てきた。

自傷行為とは自分を守るための行為であるとわたしは思う。恐らくトラウマと関りがある。目には見えない何かと闘っているから苦しい。自分ですらわからない何か?生き延びるための行為だったという事に間違いない。

 

何をどうしても吐き出せない時、もういいよって声がした。吐きたくても出てこない。もう吐けるモノはない。

自分と向き合う。どうしていいのかわからなくてめちゃくちゃ苦しい。何もかも投げ出して逃げ出したくなる。だけど逃げ道がない。そんな時は自分を追い込む。私が悪い。自分の存在自体嫌になる。凍り付くこと、自分を責めるコト、即ち自傷行為。全ては生き残りをかけた戦いだった。死を選ぶこともできたかもしれない。だけど私は生きることを選んだ。DNAに刻まれた私の魂はサバイバル状態で生き残る術を知っている。生きろ!どんな意味があるのかはわからないけれど、生きるしかない。

こうして過去が出てくると、ビックリする。感情が出てくるという概念はあったけれど、行動まで出てくるなんて思ってもいなかった。だけどもう向かい合っていくしかない。必要に応じて出てくる。乗り越えられないことはない。そしてこの出てきた過去に意味はない。ただ出てきているだけ。意味付けはしなくていい。ただ淡々と自分の中を通り過ぎていくのを待つだけ。ちゃんとあの時の事は今のわたしに届いてるよ。って反応してあげる。ツラい状況は永遠には続かない。見えないけれど少しづつ螺旋階段を上がるように動いている。信じて待つ。決して藻搔いてはいけない。抗ってはいけない。自然の摂理だから。本物の癒しって正直キツイと思う。認識しなくて良いモノを見ないといけないからキレイごとでは済まない。だけどその先にはきっと自己成長というものがあり、まだ知らない自分との出会いがあるかもしれない。自分の中に長年眠っていたものは発酵したり、腐っていたりする。だからそれなりに出てくる時は生々しかったりする。そんな自分の過去と向き合えるのは伴走してくれる人がいるからこそであり、それに甘えられる自分でもあり、強い自分でもあると思います。自己肯定感の低さゆえに学ぶことは多い今日この頃。

自分の中のシャドーに光をあてるという事。自己成長には欠かせないことだと思います。

自分を癒すという事

ずっとずっと不調だった。

いろいろな感情が出てきたり、訳のわからない状態になったり、知らない人格が出てきたり。だけど何とかここまで来れた。これでもかって伴走してくれる人がいる。今までもいたけれど、それよりもパワフルで、暖かい。二人とも同じだけど全く違う側面を持つ。師がふたりいるという心強さ。これはもうかけがえのないものである。

 

自分の中にある未消化なモノがたくさん見えた。嫉妬、怒り、悲しみ、、、。吐き気がひどくて眠れない日もあった。自分の身体が嫌で、、、ココから抜け出したい。爬虫類の脱皮みたいに苦しかった。それは同時に助けを求める声であったのかもしれない。毎日いろいろな事がありすぎて、気づきがたくさんありすぎて忘れてしまった。だけど人生の中でいちばん自分と向き合った日々だと思う。

どうしていいのかわからないという心の叫び。それだけはキャッチできていた。

生きていく中で、自分の中で起きてしまったコト。それは単なる出来事であって理由なんてないのかもしれない。自殺願望、過食嘔吐、自分への脅迫、いろいろな形で自分を責め続けてきた。自分の存在理由がわからなかった。師匠が言っていた。施術は自己肯定だと。理由がわかるような気がした。

頑張りすぎたり、甘えられなかったり、わかってもらえなかったり、感覚過敏で人より情報量が多かったり、、、。いろんなことがあるけれど、そんな自分は自分でしかなかったり。だからそんな自分を受け入れていくしか方法はない。自分の内側で起こっている事は内側で解決するしかない。外側で解決しようとするからおかしなことになる訳であって。吸収させるしかない。

心理学でシャドウと向き合うってこと。自分の中の無意識な闇に光をあてるということ。決して平坦な事ではない。自分の嫌なところを見ていかないといけないし、綺麗ごとでは済まない。苦悩しないと人は成長できない。

最近抜苦与楽という言葉に出逢った。まさにこのコトだと思う。他人にも言えるけど、やはり先ずは自分だと思う。自分にしかできないコト。何でもそうだけど全ては自分次第。特に自分の癒しは自分自身でしか癒せないという事を身をもって経験している。

だけど一人では大変なので伴走してくれる人がいれば心強い。これも今回身をもって経験中だ。そういう点では私は運がいいのかもしれない。だから私も見習わなけらばいけないな。セラピストとしての在り方。全てを受容してくれることの大切さ。これが癒しのキーポイントでもある。存在肯定そのもの。

 

本当にいろいろあった1ヶ月だったけれど、これからもいろいろあると思う。バラバラになった自分を再構築する。手間はかかるけれど、納得のいく自分にする。たくさん迷惑をかけるけれどその分だけ素敵なセラピストになれると思う。自分がやってきたことは胸を張って他人にも大丈夫って言える。これも素敵な経験。

いつも暖かく見守ってくれてありがとうございます。

自分と自分の狭間で

ここ何日かいろいろな事に揺さぶられている。

大きな波に飲み込まれて苦しい。だけど上手く浮いてこれるようになった。飲み込まれている事を確認さえすれば力を抜けば最短で海面に出れる。

 

自分の感情と向き合う時、いつもツラかった。だけど今は出していこうと思う。

トラウマの勉強をし、全体的な解釈の仕方がわかって抵抗がなくなったという事もあるけれど、その出てくる感情には意味がないという事がわかったから。それは過去の感情であって今のわたしではない。溜まっていたものは時間が経つほど発酵する。だから重たかったり、どろどろしていたりする。そんなことを教えてもらった。そしてその人がわたしの話を聞いてくれる。わかっているからサラッときいてくれて終わり。それ以上はない。吐き出すことの大切さを教えてくれた。

 

今日は第三者にコテンパンにやられた。どうやら相手からも吐き出されるらしい。ターゲットはわたし。余裕がある人を狙うらしい。それも循環だって教えてくれた。だからわたしの癒しは順調に進んでいるとのコト。

 

一般社会の方たちとは考え方がかけ離れている事は承知していたが、言っている意味が本当に解らなかった。娘のバイト先での出来事。髪の毛を染めたいけどやっていいか確認してOKが出たのでやったら、想定外だったらしく、マナーの話になった。そして親の話になる。本当に吐き気がする。変な解釈を入れるからややこしくなる。だったらストレートに言ってくれ!こっちは誠意をもって確認しているのに、後から理由をつけてくる。こういう思いを何回もしてきた。自分の中に溜まっていた発散しきれなかった悔しい思い、怒り。同時に一般社会への憤り。縛られる社会にしてきたのは大人だ。だからこそ変えていかなければいけない。し、おかしな世の中だということに気づかなければいけない。

 

最終的に娘にもいろんなものを吐き出され、今日はさんざんな日でした。だけど話を聞いてくれる人がいることに感謝です。

そしてこれを書くという行為も吐き出すこと。

 

セラピストとして生きていくと吐き出されることが多くなると言われ、納得です。今までも言われてはきたけど、その言葉に意味はないということがわかったので、気持ちが楽になりました。

 

いろんなことがあるけれど、それはいい経験であって必要なことかもしれない。

いつでも真理を忘れずに。

 

点と点が面になる!?

先日、わたしの施術の原点の人に会ってその方の施術を受けてきた。

 

なんとまぁ、いろんなことが起きまくっている。と同時にいろんなことが腑に落ちまくるという慌ただしい日々の中にいます。

 

仮説検証が一気に起きていて正直、頭がついていかない状態。点と点が線になるというよりも面になってしまう感じ。

師匠に言われてきたことが理解できた時、それはわたしの中できちんとした言語で他人に説明できるようになる。今日も友人とのやり取りの中で淡々と言葉にできて、自分でわたしスゴっ。と感心した。自分の中で次元が変わる感覚だったり、何かが抜けていく感覚。感覚と言語が同時進行するイメージ。ちなみに今日は出てきた感情をジャッジせずにそのまま見るという事。今まではただ言葉にしていたけれど、突然、あっ!わかった~キタ~!って自画自賛。今までわかっていたようでわかっていなかった事にも気づく。

と同時にわたしの人生はきっとこれが永遠に続くんだろうな。と…。他人から見たらわたしの人生はつまらないだろう。他人とは価値観が違いすぎて話も合わない。他人どころか家族もね。でももう何ともない。一生合うことはないという事がわかったのでわたしは理解されない事を前提に、自分を掘り下げていこうと思う今日この頃。割切れると楽になるし、他人が気にならなくなる。受容できたという事だろうか?

自分の中で大切なコト。人によって様々だけれど、物事の本質って本当に大切だと思う。結構面倒だったりするけどこんな時代だからこそ今一度原点に戻って、ひとりひとり考えていかなければいけない事ではなかろうか?