かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

自死

相変わらずつらい日々。

 

とうとう死にたい感じになった。とはいえ死なないけれどそういう気持ち。そりゃぁそうだ。幼少期から死のうと思っていたからこの感情が出てくるのは当たり前だろう。

 

何でこんなに苦しいのだろうと思うが、当時のわたしはもっと苦しかっただろう。幼かったし、この苦しみを共有できる人はいなかったのだから。そりゃぁどうすることもできないよ。そう思うと、本当によくぞここまで生きてきたと思う。小さい頃から死を考えていたわたし。何故死のうと思っていたか?それはわたしの存在理由がわからなかったから。怒られたり、誰かの機嫌が悪かったり、いろんなことが重なっていく上でわたしがいなければ自分はこんな嫌な思いをしなくてもいい。そう思ったから。だけどわたしが死んだところで、誰も悲しまないし、きっと死んでも何の問題解決には至らないと判断した。だけど幼いわたしにはどうすることもできなかった。死のうと思ったわたしは何故生きるのか?存在するのか?にシフトしていく。

 

生活面で困ったコトはない。むしろ恵まれていた方だと思う。だけど、精神面ではボロボロだったな。ツラかったり、自分を追い込んだり、決して幸せだとは思えなかった。振り返ったり、過去と対面して感じた事は自傷行為が本当に多かった。過食も、恋愛も。もしかしたらそれは私の意思ではないのかもしれない。先祖から受け継がれるモノが少なからずあると思う。

わたしは幸せになる権利がある。癒される権利もある。ずっと苦しんできた。自ら進んでそうしたのかもしれないが、そろそろいいかな?って思う。想念パターンを変えたい。自分を傷つけることでしか自分を守れなかった。だけど人生の折り返し地点、そんな自分に違和感を感じる。もういいよって気づき。凍り付いた身体は解け始めている。過去だと分かっていても結構つらい。死にたい感覚。身動きが取れない感覚。どうすることもできないけれどそんな自分と向き合っていかなければ前には進めない。自分の中のシャドウと向き合って、和解というか、折り合いをつけていく。静かに嵐が通り過ぎるのを待つ。わかったよ。あの時の気持ち、届いてるよって。自覚して受容する。そのままの気持ちを色付けしないでそのまま見てあげる。そうなんだねって。どうにかしようとしないコト。言われ続けてきた言葉が自分の中でリフレインする。

 

結構な深さまで沈んでいる気がするけど、浮かんでいくのはやめようと思った。以前養老先生が言ってたこと。どん底まで行ったらもっと掘れ。掘らないと先には進めない気がする。浮上したらいつかまた同じことが起こるだろう。掘っていったら何かが見えるかもしれない。し、見えないかもしれない。わからないけれど、、、。

 

いろいろな苦しみがある中でいろいろな気づきもあった。輪廻転生で生まれかわるって言うけれど、気づかないままだと同じ事が繰り返されていくと思う。生まれ変わっても、自分=魂は変わらない。つまり生まれ変わったらなんて都合のいい話な訳であって。だとしたら、自分と向き合うしかないと思う。幸せは苦しみの中からしか生まれないって。そして苦しみは幸せからしか生まれない。仏教の教えってすげぇなって思う。人としてどう在りたいか?そんな時、自分を立ち返らせてくれるモノ。

 

どん底にきてると同時にどう在りたいか?そんなことも気にかけていかないといけない時期なのかもしれない。今までの自分が自分ではなかったとしたら、今度はどうするか?みたいな。自分の人生を生きていくってどんな感じなんだろう?