かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

自分なんてない

大変ご無沙汰しております。

 

いろいろなコトがありました。何度かブログも書いてはいたものの、UPまでには至らずを繰り返す。自分の中では考えがまとまっているのだけど文字にすると何か違うものになってしまう。そんな感じで、、、。もしかしたら書きたいコトがたくさんありすぎてまとまらないだけなのかもしれなかったり。

 

最近気がついたこと。

いろんなことがある中で、自分の感情やらというモノに対し向き合ってきたつもりです。そんな中、怒りや憎しみ、絶望の中で、これは本来の私ではないのでは?というコトに気がつきました。全てが周りの環境の中で自分とは無関係に形成されてきた人格。無意識を意識するってこういうことなのかもって…。自分でも知らないうちにいろんなことに洗脳されて自分というものを失っている。でもそれを自分だと思い込んでいる。気がついたら自分なんてないってことになり、失笑。。。そしてこのことに気がついた自分、スゴイ。だがしかし、こんな話をしたところで理解してくれる人は数人だろうな~。

そして環境以外にもこれは自分のモノではないというパターンがあるのだけれど恐らく先祖代々のモノなのかもしれないものもあり、もしかしたら過去のもの、前世と言われるものが影響しているのかもしれないなと思う節もある。そう思ったら人生って何なんだろうと思えてくる。自分を生きていないなら、過去や先祖を癒すことを何故にわたしがやらないといけないのか?だんだんと意味がわからなくなる。そう考えると人生に意味なんてないのかもしれない。ただただその時をやり過ごす。自分の為ではなく他人の為に生きるのか?その積み重ねが人類を癒す道なのか?壮大すぎる。

いろんなことがあるけれど、抗わずにに生きていく。良いことも悪いことも本来は意味がないコトなのかもしれない。洗脳された結果、意味付けをしているのは人間であって、、、。人は何故生きるのか?ずっと考えてきたし、死ぬまでずっと考え続けるのだろうけど、ここにきて思わぬ展開になってきた。誰もが納得する答えがあると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。そもそも哲学なんてそういうモノ。答えのないものを考え続けていく。この行為が大切なのかもしれない。自問自答し続ける。右往左往しながら結局は自分を深めていくことになるのかも。時代は変わりつつある。時代が変われば答えも変わっていく。正解を求めるのではなく、いろいろな考え方を学びながらいろんな考え方があるというコト。そしてそれを自分で選択できることが自由に生きるというコトではないだろうか?

絶望の中でも光を見出して生き抜くこと。ヴィクトールフランクルが言っていた。

残された時間をわたしは生きる。

そして自問自答する。