かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

諦めて生きる

最近のブームは”仕方ない”

思うようにいかないことがほとんどで、どうにかしようとすればするほど苦しくなる。そんな時、仕方がない事と諦める。今までは何とかしようと頑張ってきたが、そんな気力もなくなってきた。諦めると言っても投げやりになるということではない。自分にできる事を淡々とやっていく。

この1か月、少しづつ何かが変わっていった。行ったり来たりしながら落ち着くことができない。考え方が変わると、結構疲れる。今までにはなかった何か。当たり前だと思っていたことがそうではなくなる。どうしていいのかわからないこともある。ボーっとしたまま時間が過ぎる。

世の中にはいろいろな人がいる。話を聞いているとその人の癖みたいなものが見えてくる。自分のコトはよくわからないが、人の事はよくわかるとはこういうことだ。人の話を聞いているとふと気づくこともある。私も同じかもしれないと…。でもそれ故に共感できるところもある。でもその癖は自覚するのは難しかったりする。クセって無意識だから意識しないと自覚できない。だから相談とかって第3者に聞いてもらった方が良かったりする。客観的に見てくれる人。友人だと勝手な思い込みがかなり入ると思う。

身体も人も操作しようとするからおかしなことになる訳で。多様性というけれど、今までは多様性を許さなかっただけではないだろうか?本来多様なはずなのに、そうならない様にレールを作りそこから外れる者は社会不適合者となり外された。外れない様に教育されてきたように思う。

高校の国語の授業で、作者は何を思ったのか?という問いに”答えはないと思います。”と答えたら教室中がわたしに注目した。そんなこと作者に聞かないとわからないし、そもそも何を思うかはその人の自由だと思い、意味がわからなかった。理解のある先生だったので、間違いではないが、テストでは点が取れないと言われた。そうですよ。その通り。作者だって時間が経てば違う考えになるかもしれないだろ~!!

まさに私は社会不適合者だったと思う。だけどお陰様で常に疑問を持ち続けていた。どうして?そんなことがきっかけで突き詰めていってらどうして人は生きているのか?に辿り着き今では禅の考え方に脚を突っ込んでいると言う訳です。

 

何かの記事で”気づき”とは相反するもの両方を自分が経験してはじめて気づくという。実際に経験しないと気持ちなんてわからないのかもしれない。両方経験しても我が強いと訳が分からないことになっていく。こだわらないこと。執着しない事。わたしで言う諦めて生きる。仕方ない。

ああでもない、こうでもない、と言っている人ほど意見がコロコロ変わったり、自分ってものがなかったりするような。矛盾しているが、自分自分は良くないが、自分がないとぶれてしまう。上手く言葉では言えないが、これが感覚というものなのだろうか?わかる人にはわかってもらえるのでは???結局同じことを何も考えずにこなしているといずれは飽きる時が来てどうでもよくなってしまうのではとも思う。感情とは心の形成物とタイが言っていた。自分と和解するとは、自分と向き合うことであり、自分の過ちを修正すること。現象は結果であり、そこまでの過程があり、原因がある。ひとつづつ丁寧に紐解いていく事で自分の癒しになる。誰が悪いわけでもなく、ただそのコトを見つめ、受容していく。時には苦しく辛い事もある。だけどそこを乗り越えないと、自分を超えられない。相手は他の誰でもなく自分自身。

癒し=リラクゼーション的な感覚があるけれど、そうではない事がわかって絶望したが、仕方ない。諦めようと思った。藻搔いたところでどうにかなる訳でもなく、現実を受け入れるしかなかった。私以外の誰かは気持ちよさそうにしているけれど、私にはそれが出来ない。同じことは出来ない=現実は変えられないので、できることをやっていく。そんな自分を受け入れて自分を変えていく。そのうちに自分なんてなくなっていくんだろうな。。。