かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

人が生きる意味

養老孟司さんにはまって何も抵抗できなくなった。

モノ☞何かをする為の意味がある。自然☞ただある。だから意味なんてナイ。世の中は物で溢れている。意味があることで安心したり、納得したり。

都会に行くと妙な安心感がある。学生時代住んでいたことがあるが、大人になってからたまに行くと、ホッとする。理由があるモノで固められた世界。乖離した自分がいるなら居心地は間違いないだろう。今という現実感がないのだから。妙に腑に落ちる。

 

長年生きる意味について試行錯誤してきた私にとって ”産まれてきちゃったんだからしょうがない” はある意味安心でもあるし、あきらめでもある。森羅万象には意味があると思っていたので、意味がないかもしれないと思った時、意味がない事が意味なのかもしれない。という勝手に降って湧いてきた感覚。人は産まれてくる時、死ぬ時、自分の事を確認できないと…。そして自然分娩は操作できない。どうしようもない事。抵抗出来ない事。腑に落ちるというよりも仕方がない事なんだな~と、楽な気持になった。今まで一生懸命考え続けてきたけれど、これも一種の考え方なんだな~と。そしてまた今までの学びが一気に結びついてくる。

考え方の柔軟性。いろんな角度から物事を見れること、それはまさに自分が変わればいいという事でもあり、次元の認識の違いという事ではないだろうか?様々な入力と出力を繰り返して学習した結果、自分のモノになっていく事。それが言葉では表せない揺るぎないモノなのでは。入力がいつも同じという事は、変化しないという事。即ち、実は学習できていないという無駄なコトだったりする。

現代人は変化を嫌うという。安定=安心だったりする。だけどこうなるように人間は世界を作り上げてきたと。人工物には意味がある。だけど自然は意味を持たない。そうなったからしょうがない。植物は太陽に向かって発育する習性がある。我が家の木は密集していたため枝が螺旋状になっている。動けないのでどうにか太陽の方向に向かって伸びていった結果である。周りの木を剪定し、日が当たるようになったが、何事もなかったかのように成長するであろう。どうにかしようとするのではなく、なるがままに。

 

いろんなことを考え続けて1周回ってきた感じがする。答えは言語化できないけれど自分の中で感覚的にわかってきた。養老先生のお陰で感覚的にわかることが大切。考えることも大切。何の役にも立たないけれど自分の信念みたいなものが少しできた気がする。生きている意味なんてナイ。仕方なく生きていたけれど、しょうがないから生きていく。日本人なんだから外国人にはなれない。間合いとか、行間みたいな感覚は日本人にしかないと言う。ならばそれを排除するのではなく、良いものとして受け入れていけばいい。どうにかしようとしたりするからおかしくなるのであって…。

おぼれた時、藻搔けば藻搔くほど沈んでいく。力を抜くと浮かび上がると。人間も自然に分類されるらしい。知能があることで極限状態まで達してしまった世界。問題が起こっているのではなく、結果であることを受け入れ、平和な世界を想像したい。これからのこどもたちのために…

 

養老先生、ありがとう。