かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

精神科医

精神科の先生と話をした。(メインは娘だが、私のカウンセリングにもなっているはず)基本的に先生の事、嫌いじゃない。けれどどこかで苦手だったりする。通い始めて半年、自分なりに言いたいコトも言えるようになってきた。私の通院ではないけれど、ひるむ時もある…。そしてコロナの関係で先生とわたしたち患者は一定の距離をとっている。ある意味でいい事だと思う。しかも精神科なら尚更。そんな中、薬の残量確認の為、渡すときに少しだけ手が触れた。当たり前かもしれないけれど、あたたかい。そんな瞬間、この人も生身の人間なんだと思ったのと同時に、私も生きていると。そもそも人に触られたりするのは苦手だし、男性なら余計に力んでしまう。でもなぜか温もりみたいな何かを感じた。

 

娘の友達に障害者の妹がいる。友達は我が家のようにいるのでこちらも気兼ねなく接しているが、その子は”障害者に優しくなんて言うけれど一緒に住んでみないと何にもわからないくせにふざけるな”と言う。確かにそうだと思う。わたしも育てにくい娘の件で先生に「もう限界です。先生に1週間預かってもらいたいです。」と言った。なぜなら、症状はよく理解しているのかもしれないけれど、ずっと一緒にいる私の身になってよ~という心の叫び。精神科医の皆さんよ、そこまで勉強するのかい?

当事者を変えることは出来ない。それを支える人の環境を整えてくれたらと…。実際に自分自身がそういう経験をしないと分からないだろうな~。知っていると分かるは違う。まさに閉ざされた社会とはこういうことだろう。家庭という小さな社会。

安富歩さんが言っていた。”社会を癒すにはまず大人が癒されないといけない”核家族になって他者との繋がりがなくなったため、一生懸命働いて、身も心も蝕まれ、余裕がない。嫁いびりなんて典型的ないじめだし、年配者が偉いと思うなら、優しく接しろと思う。結局自分がどう接するかで、自分に見合った人、見合ったものしか集まらない。加害者にも癒されない傷があるのは確か。複雑な世の中になっています。

 

話を戻す。娘が「○○先生、結婚してないだろうね。」私もそう思った。恐らくとにかく研究熱心、勉強熱心、マイペースだけど患者の話は時間が押していても聞いてくれる。診察時間が定刻で始まるのは珍しい。そもそもこの先生との出会いは5年前、近場の病院を転々としていた時、とある病院で精神科の受診を勧められた。選択肢は2つ。しかし両院とも受診は早くて半年後。待てる状況ではないので直接話をしてくれたらしく…。本当にありがたい話である。そんな素敵な先生が紹介してくれるなら人間的に間違いはないはず。カウンセリングって相性がある。今回の通院も娘が決めた。近くのカウンセリングに行ってみるか、○○先生がいいか?精神科とカウンセリングルーム、薬の処方だったり、金額だったり、色々違いはあるけれど、隠れ貧血を5年前から予測していたし、金銭的にも病院の方が負担が少ない。通院距離はあるけれど、ちょっとした気分転換にもなると思えばいい。

医師の中でも心を扱うのは精神科だけである。ホリスティックな視点からすれば、良き医者は世の中全体を診ますよ。と考えると精神科って素敵。そういえば英語だとpsychiatry。唯一目には見えない領域。だからこそ難しいし、オーダーメイドの治療が必要だと思う。海外ではtherapy.セラピストの重要性というか、地位が確立されているらしく。主治医と連携がとれているらしい。でも結局どんな病気でも本人が治療する気にならないと治癒はしない。傷も心も癒されない。それを助けるのがセラピスト。はい、私も一応セラピストですが、自分を見ていると、いろいろなモノが浮上してくるのでそれに寄り添っていくって大変だよな~と思います。

だからこそ肌の体温を感じた時、ハッと人間臭さみたいなものを感じ取ったのかもしれません。この人毎日患者を診察しているけれど、同じ人間なんだよな~。そしていろいろな難題を振りかける娘に対して、どうしようか?と私に投げかけてくる。困っているのは私だけれど、先生もわからないのだと思う。そして気分の波はただ過ぎ去っていくのをやり過ごすしかない。と…。結局リソースを見つけることが混乱を防ぐ第一歩なんだろうな。医師という社会の中で生きている先生。学校という社会の中に入れない娘。発達の凸凹があるのは仕方ない。光る何かを持っているのにもったいない。と言われる。精神科医よ、このような子供たちが力を発揮できるよう寄り添ってくれ~