かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

ひとり禅問答

死について考えまくった結果、人は何故生きているのか?という疑問に発展した。考えなくてもいいようなことばかり考え、生きる意味を見出せず、苦しんでいた。周りは楽しそうだったり、夢に向かって努力していたり。私は”ただ生かされている”という感覚だった。周りのみんなに支えられている、という生かされてるではなく、やらされている感の生かされてる。

 

出生時前置胎盤の為、帝王切開での出産だった。

当時、母子共に危険な状態で命の保証はできないと言われたそうだ。今でも母子共に元気に生存している。出生時から既に死からは逃れなれない事がうかがい知れる。

生きる意味について熟考したが、答えは未だ見つかっていない。なかなか答えは見つからなそうなので死に向かって生きることにした。夢、やりたい事、考えるだけで苦しい。やりたい事すらわからない。

何のために存在するのか?もう少しで答えが見つかりそうになるとまたスタートラインに戻されるという事がずっと続いている。

 

ある日、写経をする事で一筋の道が見え始める。意味を調べていくうちにこれも一生を通して学んでいくものであろうと察する。禅の世界は以前から興味があった。専門学校の授業で古美術研修というものがあった。京都、奈良1週間神社仏閣漬け。もちろん事前研修&レポート提出有り。濃縮された時間内の勉強はさすがにもう仏像は見たくない…となった。でもいつかまたゆっくり行きたいと思う場所だった。

 

太陽の軌道を計算して建物を造り仏像を配置する。これを知った時には言葉にできない感動を覚えた。きっと当時の人たちは多くの智慧を知っていたのだと思う。人間は良いことも悪いこともすぐ忘れる。そして欲深い。日本の四季と仏教そして自然の摂理を忘れないよう、私たちの無智さを戒めるために造られた様。

何にも逆らわず、ただひたすらに生きる。生きる希望のない私にとって心地よい教えだった。当たり前に慣れてしまうと当たり前になっていく。物事が軌道にのらなくなった時も、滞りなく進んでいる時も、原点に戻るという事は意味のあるものになる。

空っぽではない空の世界。陰と陽がセットであるように両方を持ち合わせていることで味わい深い空となる。

 

数年前、偶然京都に行く事があった。時間の関係で1日の滞在となったがやはりまた来たいと思った。有名な場所も良いが、やはりマニアックな小規模の仏閣は観光客も少なくゆったりとした時間と空間を味わえる。何とも言えないひと時だった。