かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

シフトチェンジの時

ここず~っと、何においてもやる気が出ない。

そんな時は焦っても仕方がないのでひたすら、ぼーっとする。というか無理矢理何かをしようとするのをやめた。藻搔けば苦しくなるから。とにかく毎日をやり過ごす。出来ることをやる。必要最低限の事はやる。ギター、勉強、読書。全てが一旦停止。

そんな中、娘から風邪をいただき、久しぶりに風邪の症状を体感する。ひきはじめは順調だったが、後半鼻詰まりがなかなか回復せずスッキリしない。風邪は自己調整だという。確かに疲れていると風邪をひきやすかったりするので、ちょっと休もうか?という事になる。休みの日はずっと寝ていた。もう決して若い年齢ではない。風邪は万病のもとなので、治りかけだからこそ無理をせずに身体を休ませることにした。気温も下がり始めているので徐々に身体を適応させていくように。

そんなこんなでブログは何度か書いてはみたものの、まとまるわけがない。

だけど何も手につかない時、ぼーっとすることが増えた時、人生のシフトチェンジの時が多い気がする。ちょっとだけ人生の骨休めをしてまた新たに、進んでいく。人生の地図は自分には見えないから現在地すらわからなくなる。そんな時は迷ったまま歩き続ける。そうすればいつか抜けだ出る時が来る。時には止まってきた道を振り返る。進んだり、休んだり、人生うまく行く事ばかりではない。マイナス面があるからこそ人は強くなれたり、優しくなれたりする。そう考えると今こうやってクスぶっている事は悪くないな~なんて思えるようになってきた。苦しい時こそ自分と向き合う時。じっくり時間をかけて対峙できたらと思う。

 

違和感

以前私はスピリチュアル好きだった。

が何となく違和感を抱えたまま過ごしてきた。そんな中、真のスピリチュアル、秘教というものに出会い、納得。本当のスピリチュアルとは。一般的なスピリチュアルとはかけ離れていると言ってもいい。アリスベイリーという方がジュワルクール大師の言葉を下ろして執筆したというが、これまた何を言っているのかさっぱり分からない。真理というものは言葉を鵜呑みすることほど危険なことはないと思う。自分の中で熟考し、実践し、また熟考の繰り返し。誰も答えなんて教えてくれなければ正解なのかも教えてはくれない。だから常に自分と向き合い、自分に問いかける。本当にそれでいいのか?めちゃくちゃ地味な学問である。1年間の講座で途中、自分はわかっているのか分かっていないのかさっぱり解らなくなった。先生に相談すると、わからないまま続けて下さいと言われ、目が点になった。苦痛だった。内容が頭に入ってこないのでメモをとることもままならない。そしてついに諦めた。解ろうとするのをやめようと。一緒に受講した秘教の先輩に、私も通ってきた道だから大丈夫、毎回ココに来て座っていればいいから。と言われた。そうするとあら不思議。秘教の講義はわからなくてもセラピストの講義を受けた時、ストンと腑に落ちるではないか。これはこういうことかもしれないと。とりあえず、ただの情報として入れておくと他の何かがきっかけになって結びつくではないか(゚д゚)!

 

風の時代は個の時代と言うけれど、好き勝手にやるのは違うと思う。先ずは自分と言うけれど…。私は違和感しかない。人間は哺乳類なので本能的に社会性というものを無視しては生きられない運命だという。”先ずは自分”の意味の解釈の仕方。恐らく、自分の事を理解するコト。感覚を大切にと言うがその根底にあるものを理解できていないと道を誤る。感情ではなく、感覚。そしてこの感覚は自分の身体と深く影響しあっている。いわゆる体調といわれるもので感覚も変わってきてしまう。”自分のコト=身体”先ずは自分の意味はここだと思う。

何故身体なのか?わたしたち人間は自然です。自然は同じものは存在しない。リンゴも色、味、大きさ微妙に違います。人間だと容姿、声、誰が見ても変わらない現実。養老先生はこれが個性だと言っています。無理をすると疲れが溜まり風邪をひきやすくなり、体調を崩しがちになります。でも人によってどこまで無理ができるのかは違います。無理を続けると、病気になったり、最終的には突然死という結末も…。寿命がきたら死ぬことが自然であるとすれば、身体を調節する機能がわたしたちには備わっています。これを無視するのではなく理解したうえで活用するという事。疲れたら休むとか、暴飲暴食をするようなストレスは避けるとか。わたしが環境に合わせるのではなく、わたし自身の身体に合わせていく事。これが自分を大切にすることで、”まずは自分”の本当の意味だと思います。これをしていく事で世の中も変容すると言われている。働き方、環境問題、金融。現代はお金中心の世の中。お金が必要だから働くというのは本来の人間のいのちを考えた時にはちょっと待って…生存していくには栄養が必要なわけで、これを購入という形ではなく自分で栽培する。働くという意味を根本から考え直す必要があると思います。お金の為に働く、のではなく生きるために働く。現代人の生きるという事からいろいろなものを究極までそぎ落としていって生存するためにはどうしたらいいのか?栄養を摂る。文明が発達したことによって生物本来の形が失われています。生きることではなく、そのほかの事に、重きが置かれてしまって。欲しいものを購入するために。とか、、、自分を見ていてもたまに世の中とのバランスをとるのは難しいな~と思いながら生きています。

自分自身に余裕が持てることで人に優しくできる世の中になる。そのためには先ず自分の居心地の良い状態を見つけること。無理をしない事。もしかしたらシンギュラリティはとっくに過ぎていることかもしれない。0と1でつくられた世界は規則があるけれど、日本人にはそれ以外の曖昧な感覚があるから、、、。

どん底まで行ったらもっと掘れ!

自分の哲学思考は何にも役には立たないが、自分自身にとって収穫があった。

考え事が行き詰った時。どん底まで行ったら後は上がるだけ。ではなくもっと掘れ。その意味が何となくわかってきた。考えに行き詰った時、答えが出るその時をじっと待つのも手だが、もう一回原点に戻って同じことを考え直す。というのも悪いものではない。今回知らない間にやっていて紙に書くという作業をしていたら気がついたら腑に落ちたというよりも新しい発見があった。

 

私は正直、子供があまり好きではない。

嫌いな理由が分かった。マイブームの養老先生のYouTube。子供は自然と同じ。思うようにならない。そして娘は型にはまれない、どう接したら良いのか分からないタイプ。

世の中は人工物に囲まれている。つまり想定内の中で生きているという事。すべてにおいて意味や理由がある。作り込まれた社会の中で生きていると安心、安全でそれが当たり前になる。ところが自然はいつ何が起こるか分からない。予測不能なモノ。

子供は自分の人生を左右しまくる。私が思ったようには生きれない。コントロールしようとしてもできないし、扱い方が分からない。そして私は困惑する。更に途方に暮れる。イライラする。そして自分が知らないうちに社会の型にはまっていたかという事を思い知る。

でも私は自然が好きだ。癒される。という事はもしかしたら子供にも癒されるのか⁉強いていえば人間には感情というものがあるが、植物にはナイ。

という事は...言語が厄介なのかもしれない。感覚を言語化してしまうとその時点で違うものに変化する。感覚が違うものに変わっていく。言葉は呪いという意味が理解できる。そもそも人によって解釈の仕方なんて変わってくるし、伝えたい人の本当の意味なんて読み取る人はほとんどいないだろう。意識しないと無意識のうちに意識の使い方が洗脳されていく。思い込みだったり、考え方のクセだったり。だから意識してやるという事が大切になってくる。イコール俯瞰して物事を見るという事にも繋がってくる。これができないと何も変わらない。先ずは何でも状態を知る、いわゆる気づきというものが重要になってくる。そしてその状態になったら、またやっているという事に気づく。それを繰り返していくうちにパターンが見えてきたりする。そうするとその状態になろうとするとちょっと待て、と行動にもストップがかかる。そして行動パターンや思考パターンが変えられる。だから感覚というよりも自分と向き合うという事になる。誠に地味な作業である。

人が生きる意味

養老孟司さんにはまって何も抵抗できなくなった。

モノ☞何かをする為の意味がある。自然☞ただある。だから意味なんてナイ。世の中は物で溢れている。意味があることで安心したり、納得したり。

都会に行くと妙な安心感がある。学生時代住んでいたことがあるが、大人になってからたまに行くと、ホッとする。理由があるモノで固められた世界。乖離した自分がいるなら居心地は間違いないだろう。今という現実感がないのだから。妙に腑に落ちる。

 

長年生きる意味について試行錯誤してきた私にとって ”産まれてきちゃったんだからしょうがない” はある意味安心でもあるし、あきらめでもある。森羅万象には意味があると思っていたので、意味がないかもしれないと思った時、意味がない事が意味なのかもしれない。という勝手に降って湧いてきた感覚。人は産まれてくる時、死ぬ時、自分の事を確認できないと…。そして自然分娩は操作できない。どうしようもない事。抵抗出来ない事。腑に落ちるというよりも仕方がない事なんだな~と、楽な気持になった。今まで一生懸命考え続けてきたけれど、これも一種の考え方なんだな~と。そしてまた今までの学びが一気に結びついてくる。

考え方の柔軟性。いろんな角度から物事を見れること、それはまさに自分が変わればいいという事でもあり、次元の認識の違いという事ではないだろうか?様々な入力と出力を繰り返して学習した結果、自分のモノになっていく事。それが言葉では表せない揺るぎないモノなのでは。入力がいつも同じという事は、変化しないという事。即ち、実は学習できていないという無駄なコトだったりする。

現代人は変化を嫌うという。安定=安心だったりする。だけどこうなるように人間は世界を作り上げてきたと。人工物には意味がある。だけど自然は意味を持たない。そうなったからしょうがない。植物は太陽に向かって発育する習性がある。我が家の木は密集していたため枝が螺旋状になっている。動けないのでどうにか太陽の方向に向かって伸びていった結果である。周りの木を剪定し、日が当たるようになったが、何事もなかったかのように成長するであろう。どうにかしようとするのではなく、なるがままに。

 

いろんなことを考え続けて1周回ってきた感じがする。答えは言語化できないけれど自分の中で感覚的にわかってきた。養老先生のお陰で感覚的にわかることが大切。考えることも大切。何の役にも立たないけれど自分の信念みたいなものが少しできた気がする。生きている意味なんてナイ。仕方なく生きていたけれど、しょうがないから生きていく。日本人なんだから外国人にはなれない。間合いとか、行間みたいな感覚は日本人にしかないと言う。ならばそれを排除するのではなく、良いものとして受け入れていけばいい。どうにかしようとしたりするからおかしくなるのであって…。

おぼれた時、藻搔けば藻搔くほど沈んでいく。力を抜くと浮かび上がると。人間も自然に分類されるらしい。知能があることで極限状態まで達してしまった世界。問題が起こっているのではなく、結果であることを受け入れ、平和な世界を想像したい。これからのこどもたちのために…

 

養老先生、ありがとう。

精神科医

精神科の先生と話をした。(メインは娘だが、私のカウンセリングにもなっているはず)基本的に先生の事、嫌いじゃない。けれどどこかで苦手だったりする。通い始めて半年、自分なりに言いたいコトも言えるようになってきた。私の通院ではないけれど、ひるむ時もある…。そしてコロナの関係で先生とわたしたち患者は一定の距離をとっている。ある意味でいい事だと思う。しかも精神科なら尚更。そんな中、薬の残量確認の為、渡すときに少しだけ手が触れた。当たり前かもしれないけれど、あたたかい。そんな瞬間、この人も生身の人間なんだと思ったのと同時に、私も生きていると。そもそも人に触られたりするのは苦手だし、男性なら余計に力んでしまう。でもなぜか温もりみたいな何かを感じた。

 

娘の友達に障害者の妹がいる。友達は我が家のようにいるのでこちらも気兼ねなく接しているが、その子は”障害者に優しくなんて言うけれど一緒に住んでみないと何にもわからないくせにふざけるな”と言う。確かにそうだと思う。わたしも育てにくい娘の件で先生に「もう限界です。先生に1週間預かってもらいたいです。」と言った。なぜなら、症状はよく理解しているのかもしれないけれど、ずっと一緒にいる私の身になってよ~という心の叫び。精神科医の皆さんよ、そこまで勉強するのかい?

当事者を変えることは出来ない。それを支える人の環境を整えてくれたらと…。実際に自分自身がそういう経験をしないと分からないだろうな~。知っていると分かるは違う。まさに閉ざされた社会とはこういうことだろう。家庭という小さな社会。

安富歩さんが言っていた。”社会を癒すにはまず大人が癒されないといけない”核家族になって他者との繋がりがなくなったため、一生懸命働いて、身も心も蝕まれ、余裕がない。嫁いびりなんて典型的ないじめだし、年配者が偉いと思うなら、優しく接しろと思う。結局自分がどう接するかで、自分に見合った人、見合ったものしか集まらない。加害者にも癒されない傷があるのは確か。複雑な世の中になっています。

 

話を戻す。娘が「○○先生、結婚してないだろうね。」私もそう思った。恐らくとにかく研究熱心、勉強熱心、マイペースだけど患者の話は時間が押していても聞いてくれる。診察時間が定刻で始まるのは珍しい。そもそもこの先生との出会いは5年前、近場の病院を転々としていた時、とある病院で精神科の受診を勧められた。選択肢は2つ。しかし両院とも受診は早くて半年後。待てる状況ではないので直接話をしてくれたらしく…。本当にありがたい話である。そんな素敵な先生が紹介してくれるなら人間的に間違いはないはず。カウンセリングって相性がある。今回の通院も娘が決めた。近くのカウンセリングに行ってみるか、○○先生がいいか?精神科とカウンセリングルーム、薬の処方だったり、金額だったり、色々違いはあるけれど、隠れ貧血を5年前から予測していたし、金銭的にも病院の方が負担が少ない。通院距離はあるけれど、ちょっとした気分転換にもなると思えばいい。

医師の中でも心を扱うのは精神科だけである。ホリスティックな視点からすれば、良き医者は世の中全体を診ますよ。と考えると精神科って素敵。そういえば英語だとpsychiatry。唯一目には見えない領域。だからこそ難しいし、オーダーメイドの治療が必要だと思う。海外ではtherapy.セラピストの重要性というか、地位が確立されているらしく。主治医と連携がとれているらしい。でも結局どんな病気でも本人が治療する気にならないと治癒はしない。傷も心も癒されない。それを助けるのがセラピスト。はい、私も一応セラピストですが、自分を見ていると、いろいろなモノが浮上してくるのでそれに寄り添っていくって大変だよな~と思います。

だからこそ肌の体温を感じた時、ハッと人間臭さみたいなものを感じ取ったのかもしれません。この人毎日患者を診察しているけれど、同じ人間なんだよな~。そしていろいろな難題を振りかける娘に対して、どうしようか?と私に投げかけてくる。困っているのは私だけれど、先生もわからないのだと思う。そして気分の波はただ過ぎ去っていくのをやり過ごすしかない。と…。結局リソースを見つけることが混乱を防ぐ第一歩なんだろうな。医師という社会の中で生きている先生。学校という社会の中に入れない娘。発達の凸凹があるのは仕方ない。光る何かを持っているのにもったいない。と言われる。精神科医よ、このような子供たちが力を発揮できるよう寄り添ってくれ~

積読コレクション

久しぶりに本をまとめて購入した。

鷲田清一さんの本3冊、安富歩さんの編訳本2冊。

安富さんの編訳本は以前から目星をつけていたもの。”超訳論語 革命の言葉”と”老子 あるがままに生きる” 老子の方はパラパラ目を通したが、今まで言われてきたことの意味が何となく分かったり、般若心経に繋がるものを感じた。革命の言葉は何となく開くのが怖い。何故…。私の奥底に眠るトラウマが拒否反応を示しているのか?受け入れがたい何かがあるんだろうな~と思っています。

鷲田さん、と言えば哲学。やっぱりスキなんです。考えることが。やめられません。役に立たないと言われても、精神的に滅入っても、、、。本質的には生きる智慧があると思っています。考え抜いていかないと分からない考察。モノの見方。仮説を立てながらの自分との闘い。哲学は役に立たないと言われているようですが、本質的な事に介入するので世の中的には都合が悪いんだと思います。

情報過多のこの時代、何が正しいのか正直わからない。そんな時、とりあえずいろいろな情報を全部インプットするのがいいとか💦そのうちにわかってくるらしい…。現段階では私には未だわかりませんが、もしかしたらこの哲学的思考が役に立ってくるのではないかと…。仮説と検証。私の経験からだと、どんなことでも何故?と思うことが大切だと思われます。例えば、いじめだったら加害者と被害者がいて。どうしていじめたのか?どうしていじめられたのか?この手の話はいつの間にか犯人探しをしています。そんな時、ちょっと待て何か違うんじゃないか?って。何で?が誰が?にすり変わっている事に気づくと思うんです。何でも目的があって、そこから外れるとややこしくなっていく。話が分からない人がいるとそれはもう疲れちゃいますよね…。

少年院の話。一般的には加害者だけど、半数くらいはある意味、被害者だったりするようです。家庭内暴力性的虐待、、、、、これもほとんど知られていない事実だと思います。特に性的虐待は想像を絶するものだと思います。犯罪を犯してしまった罪は償わないといけないけれど、その後ろにある背景は理解しないといけない。そうしないと世の中は変わらない。当事者でないと、痛みはわからないのかもしれないけれど…。そっと寄り添える世の中になることを祈ります。

 

自然の力~身体編~

身体はよくデザインされている。という。

受精した瞬間から生命の営みを勝手に開始している。細胞分裂を繰り返し、肉体という集合体を形成していく。心臓が発生して、死を迎えるまで何もしなくても稼働し続ける。

産まれてからも不思議なメカニズムは続く。怪我をして出血したら身体は止血活動をしたり、痛みを感じなくするために、感覚器官を調整する。誰も頼んではいない。勝手にやってくれる。

 

ロバートフルフォード"いのちの輝き"の中に、あとはカラダがなんとかしてくれるだろう。という一節が出てくる。わたしたちの身体には自然治癒力というものが備わっている。それにも気づかず、他力本願で薬やら、せっかくの力を発揮できずに持て余している。とにかく現代人は待てない。結果が見えないと成功とは言わない。よ~く考えてみて下さい。空気だって、栄養だって、見えないじゃん。過程とか大切だと思うけどな。人間って、子供ってそうやって学習していくんじゃなかったっけ?

 

 「排除したものはお化けになって返ってくる」というフレーズをインテグラル理論の講座の中で聞いた。衝撃的だった。その時は自己成長とかの話の中だったけれどどんなことでも同じだと思う。食べ物、考え方、雑草、ウイルス、、、、。共存していく事。お互いを認めること。最終的にはコンパッションだなと思う。例えば雑草農法というもの。雑草の力を借りる。生かすことで根を生やした雑草は水は長雨の時には水はけを助けたり、晴天の時には日陰を作ってくれたり。当初は面倒だから草をとらないと思っていたがそれは大きな間違いだった。

文明が進む中、いろいろな病気が出てきてもそれに対応できるように身体は柔軟に対応してきている。そして今、こうして生きている。そもそも身体の8割は細菌だとか。だとすればもう少し自分の身体を信じてもいいのではないだろうか?熱が出るのは侵入してきた菌を殺すため。解熱剤や抗生物質が時には身体の仕事を奪ってしまう。AIと一緒ではないか(;゚Д゚)

ではわたしたちができること。身体のサインに耳を傾けること。暴飲暴食をしたらきっと胃に血液が集まり、眠くなったり、消化困難な時には胃がもたれたり、痛みとなって訴えてくるだろう。それに気づくこと。きっとココロはストレス解消の為に一時的でも快楽が与えられたので満足するかもしれない。カラダは反対に雄叫びをあげているかもしれない。バランスが崩れるから体調が悪くなる。体調が悪くなったからバランスが崩れる。どちらにせよココロとカラダからのサインであることに間違いはない。気合いは身体を硬直させ、麻痺させる。世の中も同じコト。麻痺した感覚は自覚がないので気づくまでに時間がかかる。気づかないと治らない。でも気づく事さえできたのならもう大丈夫!少しづつ目に見えない癒しは始まっているはず。ココロもカラダも治癒に向かって動いている筈。あとは自分の秘めた力を信じてみる。

どうか、地球も世の中もわたしたちも癒されますように…。