かまじいのブログ

INFP-Tの綴る言葉の世界

ゲオの店員さんありがとう!

数日前、突然スマホが動かなくなった。

電源は入るのにそこからストップ。いろいろ調べて最終手段のファクトリーリセットを試みるが…。画面は出るもののそこから動かない…(。-`ω-)

携帯ショップのオンライン予約はとれず、家電量販店に行ってみる。しかし話の分かる店員は対応中。

ならばダメもとでショップへ行ってみる。順番待ちの発券をすると予定案内時刻は19時…こちらも店員はすべて接客中。とりあえず店を出る。

他店の家電量販店も覗いてみるがこちらも手一杯の状況。

 

そういえば以前ゲオで何とかなったという人がいることを思い出し、詳細は一切わからなかったが、行ってみる。するとそこには中古のスマホが。んで、これどうするの???店員さんに状況を話すとスマホの状態を見てくれて、しかも親切丁寧にいろいろと教えてくれるではないか。

結論から言うと以前使っていたスマホにSIMを入れると使えるようになる!壊れたスマホを購入する際にそれはSIMの種類が違うから無理と言われた気がするは私の勘違いだったのか…(初期設定は全て自分でやります。)

 

数年前から格安スマホを利用している。某大手3社の機種が壊れてしまったのと、機種代金を払い終えると使用料が上がるという、意味の分からないことがおきていたからである。MNPの料金が9,800円かかるが1年間の使用料金で考えると3ヶ月でもとはとれるので喜んで支払った。電波状況が悪いと聞いたが、そもそも大手の回線を使っているんだからそんなことはないだろうと思っていたが、案の定全く困ることはなかった。

今、SIMフリーについて調べているが、今回の件でいずれこちらに移行したいと思っている。

機種変更をする際に、ショップだと契約事務手数料と機種変更代を3,000円づつとられる。2つで6,000円…。オンラインショップだと機種変更代だけで3,000円。自分で端末を用意できれば両方ともかからない。

保険もかなりの金額だし、一体何なんだ!という事で丁寧に扱うを前提で保険には加入していない。1年は保証が付くのでその後は賭けだった。今回支払代金は残すところあと3ヶ月というところでアウトだった。が、中古で購入したとしても保険を支払うよりは安く済んだと思う。(契約会社の保険ではなくスマホ保険というものもあるようです。もちろんこちらのがお得なのでは。)

 

今回のスマホの件で思ったのは大手はマニュアル通りがほとんど。言ってはいけない事がマニュアルにあるような気がする。その一方でゲオの店員さんのように利益目的ではなく知識の対応だったり、人の心を動かすことで本当の意味での感謝がうまれる。

この話を親友にしたらこう言った。『私は事務手数料を払ってでも とある大手3社にはいきたくない。』行くたびに嫌な対応をされたという。だからオンラインショップで購入後、自分で機種変更をしたらしい。時間も省けるし、ストレスがないのが本当に良かったと。

今はYouTubeという画期的なものがある。手順を動画で教えてくれる。しかも無料で。困っている人にとってこんなにありがたいことはない。こうなるとお金って何だろう?に発展してくる。お金で解決なんて思っていたけれどそんな時代は終わりだ。そろそろ何が本当なのか真実が問われる時代になってくることを祈る。

 

そして私もゲオの定員さんの優しさを誰かに返そうと…。

ありがとうございました。

ゲオでスマホ買うよ~

ひとり禅問答

死について考えまくった結果、人は何故生きているのか?という疑問に発展した。考えなくてもいいようなことばかり考え、生きる意味を見出せず、苦しんでいた。周りは楽しそうだったり、夢に向かって努力していたり。私は”ただ生かされている”という感覚だった。周りのみんなに支えられている、という生かされてるではなく、やらされている感の生かされてる。

 

出生時前置胎盤の為、帝王切開での出産だった。

当時、母子共に危険な状態で命の保証はできないと言われたそうだ。今でも母子共に元気に生存している。出生時から既に死からは逃れなれない事がうかがい知れる。

生きる意味について熟考したが、答えは未だ見つかっていない。なかなか答えは見つからなそうなので死に向かって生きることにした。夢、やりたい事、考えるだけで苦しい。やりたい事すらわからない。

何のために存在するのか?もう少しで答えが見つかりそうになるとまたスタートラインに戻されるという事がずっと続いている。

 

ある日、写経をする事で一筋の道が見え始める。意味を調べていくうちにこれも一生を通して学んでいくものであろうと察する。禅の世界は以前から興味があった。専門学校の授業で古美術研修というものがあった。京都、奈良1週間神社仏閣漬け。もちろん事前研修&レポート提出有り。濃縮された時間内の勉強はさすがにもう仏像は見たくない…となった。でもいつかまたゆっくり行きたいと思う場所だった。

 

太陽の軌道を計算して建物を造り仏像を配置する。これを知った時には言葉にできない感動を覚えた。きっと当時の人たちは多くの智慧を知っていたのだと思う。人間は良いことも悪いこともすぐ忘れる。そして欲深い。日本の四季と仏教そして自然の摂理を忘れないよう、私たちの無智さを戒めるために造られた様。

何にも逆らわず、ただひたすらに生きる。生きる希望のない私にとって心地よい教えだった。当たり前に慣れてしまうと当たり前になっていく。物事が軌道にのらなくなった時も、滞りなく進んでいる時も、原点に戻るという事は意味のあるものになる。

空っぽではない空の世界。陰と陽がセットであるように両方を持ち合わせていることで味わい深い空となる。

 

数年前、偶然京都に行く事があった。時間の関係で1日の滞在となったがやはりまた来たいと思った。有名な場所も良いが、やはりマニアックな小規模の仏閣は観光客も少なくゆったりとした時間と空間を味わえる。何とも言えないひと時だった。

ザワザワするココロ

たまに胸騒ぎたるものが突然起こる。そんな時はいてもたってもいられなくなりどうしていいのかわからず、おどおどする。そしてとりあえず、ググる。私は今、どうなってるの?

自律神経がいかれている時の症状らしい。交感神経と副交感神経のバランスがとれずにアクセル全開の興奮状態。そういえば以前耳鼻科の先生に言われたことがある。とりあえずその時は安定剤を処方されたが服用すると見事に落ち着くので逆に怖くなってやめた。

ただ、注意深く呼吸をすることで緩和はされる。ざわつく気持ちが通り過ぎるのをひたすら待つ。ただただ客観的に見守る。苦しいのは私ではない。苦しいのは私のココロ。という具合で身体と心を切り離して考える。

ゆっくり鼻呼吸をする。どこに意識を向けるかで症状が変わってくる。通常、胸式呼吸か腹式呼吸かとなるが、両方使えることにこしたことはない。

両方意識しながら、背中で呼吸するイメージで何回か繰り返していると落ち着いてくる。わかりにくい人は仰向けに寝てやってみると感覚が掴みやすいかもしれない。焦らず自分のペースで呼吸を続けているとちょっと引いた感じで全体が見えてくる感じになる。心が落ち着くと身体も落ち着く。身体がリラックスすると心もリラックスする。何とも不思議な感覚だ。

 

冬の間知らないうちに寒さから身を守るため ぎゅ~っとなっていた身体感覚から、春になるともう大丈夫だよと身体が解放される。そんなこともあって急激な変化に身体がついていけず、何かしらの防衛反応として眠かったり、だるかったり、人によって症状は違うけれど身体がゆっくり順応していくシステムなのだろう。

人間の体ってホント神秘的でよくデザインされている。

色々な発見がある度に感動を覚える。

知識が定着しない月星座がふたご座のわたしです…!(^^)!

 

 

占星術

FBでマドモアゼル愛さんのyoutubeを取り上げてる方がいて、どんな事を発信しているのだろうと覗いてみた。初めて見た動画は世界情勢を語ったものだった。他にも占星術的なものから音叉までいろいろな事を発信していた。たまたま友達が占星術を自己流で勉強していてアストロチャートというものを出してもらい自分なりに自分の分析をしていた。いろいろなサイトを見るが、その方の解釈や言い回しによって説明の仕方が違った。秘教でも奥深い解釈が必要で真実は鍛錬した人でなければ分からないようになっている。この点で占星術も同じことか…と思う。

マドモアゼル愛さんは月の解釈の仕方が他の方とは違うという。月は欠損だと。ちなみに私は太陽がうお座で月がふたご座。少しばかり衝撃がはしった。なぜならふたご座の月は悪く言えばおバカ…言いたいことをうまく伝えることが下手だとか。しかもこの欠落は成長することがないという(; ・`д・´)このブログ、誰かに伝わらないのか(-"(; ・`д・´気持ちが右往左往する。ただ、唯一の救いだったのが太陽がうお座なら社会貢献という観点で一生懸命伝えることによって情熱で伝わるとか…。

頭が悪いことはうすうす感じていた。頭脳より感覚。自分の中では感覚的にわかるのだけれど人には到底説明できない。文章を書くのは嫌いではないと思っていたが、改めて向き合ってみると案外難しいなと思っていた。まさか知的センスのなさだとは…。ならば潔く諦め知識ではなく思いを伝えよう。(どうしても何かを伝えたい) 自分の思いをうまく言葉で表現できないから自己表現としてギターだったり、書道だったり、衣装製作だったりをしていたのかも。

落ち込んでも仕方ないので受け入れていかにうまく生きていくのかが大切だとか…。処世術ってヤツですね。苦手なものを克服しようと努力するのもいいけれど、人生限られた時間の中で得意なことが誰かの役に立つならば、有意義な人生になるのかもしれませんね。

死について考える

幼い頃から“死”は身近なものだった。

物質的には恵まれていたけれど精神的には微妙な環境。自分さえいなければ…。台所の包丁を見て誰か刺してくれないかな?とか我慢できなくなったら自殺しようと考えていた。未だに生きているのは、ビビりだからである。

高校生の頃完全”自殺マニュアル”が世の中をザワつかせた。もちろん即購入。仲の良かった先生が貸してくれというので渡したら、一向に返ってこなかった。やりかねない…という事だったが当時のわたしとしたらおこずかいでせっかく買ったのに~。だったら買い取ってくれという気持ちだった。

 死の記憶で一番悲しかったことがある。やっとの思いで飼ったリクガメが死んだ時。本当にショックだった。共にした時間は3ヶ月程だったが、本当に悲しくて1週間程泣いていた記憶がある。

 昨年、叔母が亡くなった。すい臓がんステージ4で発覚してからあっという間に逝ってしまった。セラピストの立場で関わらせてもらったが、悲しいというよりもお疲れ様でした。という気持ちと安堵感だった。叔母のガン発覚をきっかけにオンコロジータッチというものを学んだ。そしてリアルタイムで練習台になってもらったので、感謝の気持ちしかない。

 生まれたからには必ず死ぬ。順番もクソもない。なのに年寄りから死んでいくもの、的な考え方が大半を占めている。それがかえって苦しみを生んでいるのではないだろうか?私たちの身体は細胞の塊である。そしてその細胞たちは役割を終えたら死ぬ。死は当たり前のもの。生きている限り逃れられないものであり、平等に与えられた権利だと思う。命の大切さばかりうたっても説得力はない。だったら死につて考えたほうがよっぽど効率的だ。

死って何だろう。いろいろと考えを馳せる事で人生が豊かになっていく。

わたしがそうであるように…。

 

 

 

シンプルに生きる

最近、何かをやる事を止めた。

このままじゃいけないと、動こうとしたり、何かを見つけようとしたり、何かをしようとする事を。

昔からスピリチュアルには興味があった。周りにもそういう人が多かった。

とあることがきっかけでアリスベイリーの秘教の講義に2年間お邪魔させてもらった。普通に読んだら意味不明の本。一般の人には解読不可能になっており、わざと判りにくく書いてある。むしろ私たちの思考や知性が無能というか、低すぎるのであろう。次元が違いすぎると言えばしっくりくるだろうか?

そこでは人間の構造や、魂、死、意識、真理など科学的に解析し、太陽系に属する私たちはどうあるべきか?を一人一人が問うことから始め地球全体が生きやすい惑星になるための言わば指南書のような物を学ぶ。そして今までのスピリチュアルはお遊びみたいに感じてしまう程だった。そこで本物を知るとはやっぱり大切だな~と実感した。

引き寄せの法則は何かを引き寄せる事にフォーカスしてしまい、疲れ果ててしまった。元々マイナス思考の私がプラス思考に転じるのは無理があった。患部を薬で治す西洋医学的な事はその時は良くても、根本的な原因解明には至っていないのでまた同じ事の繰り返し。

マイナスとマイナスを掛けるとプラスになる。足し算だと蓄積にしかならないが掛け算という転換の考え方。プラスとプラスでは変化はおきない。そう考えると楽になった。プラスとマイナス、両方を持っているという事はむしろ強みな気がする。両方の事がわかる➡柔軟性。マイナス(楽しくない事)は良くない事という考え方、日本独自の思考。失敗から学ぶのではなく、失敗しないようにする。これではいつまで経っても世の中は変わらない。含んで超えていく事これがケンウィルバーの言いたいことではないだろうか?知識が腑に落ちていく。そしてそれを言語化する。いつか誰かの心に届きますように…。

身体×添加物

仕事仲間で 顔が痒いという話になった。

マスク、花粉や黄砂の影響も然り。

あるスタッフの身内が顔の肌荒れが酷くなってきているという。化粧品を変えてみたけど効果はなく、食べ物ではないか?という結論になり、何を食べたら出るか?を検証した結果、ポテトチップスに行き着いたという。(自身で調べて恐らく植物油脂とショートニングでは)控えることによって症状は改善傾向にあるそうだ。

以前某コンビニのおにぎりを食べて気分が悪くなったことがある。体調のせいかと思ったが再度食べた時もダメだった。他社の🍙は大丈夫なのに…。

コンビニのおでんもトラウマだ。お付き合いでおでんを購入したが、つくねを食べて、嘔吐した。おにぎりと同じコンビニ。きっと相性の悪い何かが入っている。以来そちらのコンビニ弁当は摂取しない。

 

身体とは面白いもので、体内で消化できないものは出来物として皮膚から出たり、時には嘔吐や下痢という形で外に出そうとする。妊娠した時の悪阻ですら体内に異物が入ってきた時のひとつの反応として顕れるともいう。現代において添加物の年間摂取量はご飯茶碗2杯分と言われている。(ごく、一般的な食生活)昭和の時代から約2倍になっているとか。最近では原材料名を全部記載しなくてもよいとか…。恐るべし日本。一体何をしたいのだろうか?

自給自足でも良いが、野菜の苗ですら品種改良が進んでいるので何とも言えない。

こうなった新陳代謝を上げるしかない。私たち細胞は環境に応じて進化してきた。そして生き延びるべくして突然変異をする。不要なものは退化する。過酷な環境の中でも生きていく術を身につけていく。それが今私たちができる事、即ち生きるということではないだろうか?